キュレーションについて

雑然と書くけれど。(基本的にはキュレーターには直接伝えている内容である)
世界制作のプロトタイプ展始まる前には、2万字コンセプトからも、前回のwave展からも、あんまり何が言いたいとか無いんだろうなぁという風に見ていた。色々引用されても、頭よさげには見えるのかもしれないけど、そもそも読んでないからなぁ、みたいな。しかもそこから導き出されることとしては、作家の選出が狭い。
キュレーションというのは、自分が考えた限りでは、社会に対して、ある価値を展示という形式で訴えること、だろうと思う。さらに言うとこれは博物館システムと切り離せない問題で、収蔵庫は有限の面積であり、収蔵に支払えるコストは有限なので、収蔵するべき価値あるものはなんらかの基準で選別しなければならない。故に価値決定の闘争が起こる、ということになる。
実際に2度見たけれど、作家の選別に意外性や化学反応は無いように思える(ジャンルの幅はある。)。たとえばTOKIYAが展示空間でどのように作品を展開するのか、というのは結構命題として難題かつ重要なのだけれど、そこにどうアプローチするのか、とか。あとは、鑑賞経験を最大化とか、社会に表現を着地させることもキュレーターの役割と思うので、HIGUREのような車が1台通れるだけの、住宅街で、墓参りの後の家族連れが通り過ぎるようなスペースで、人が路上に溢れたり、デカい音出したりというのは大丈夫なのかな、というような、作品価値からは周縁的な問題かもしれないけれど、そういう運営の問題は気になりました。
や、手弁当で展示をやっている、というだけで、いいことなんだけどね。展示は無いよりあった方がいい。作品は無いよりあった方がいい。情報はないよりあった方がいい(あとで整理する)ってのがインターネットだからね。素朴にそう思うし。