「自然体なハイブリッド」の芸術性をめぐって 藤田明のインターメディア性と自然体さについて

 藤田明の作品を長年近い位置で見てきている。高校ではデザイン科を卒業し、大学では東京藝術大学の先端芸術表現科に進学。ドイツ・ワイマールのバウハウス大学に1年間の交換留学を経てから制作した卒業制作は、飴を舐めて尖らせるというパフォーマンスであった。

 デザイナーとして、文具のデザインに関わったが、その後の初個展では絵画を発表。第2回目の個展「アダージオの香り」では、絵画を中心に構成したインスタレーションを発表した。

 絵画といっても、近作では特に支持体がキャンバスから離れ、ペーパーハニカムボード・・・要は分厚い段ボールの板を切ったような支持体に、ステンシル技法でアクリル絵具をのせ、その上に加筆をしてみたり、あるいは紙面上にやはりステンシル技法とオイルパステル、マスキングとペインティングを組み合わせたりと、混合技法を随分と使っている。とはいえ、それがイラストレーションや絵本の原画といった、複製を前提とした仕上がりということではまるでなく、明らかに絵画として、つまり一点ものとしての仕上がりが追及されており、この豊かさは、ちょっと作品と対峙しないと伝わりきらないものがある。

 線描を用いてごく単純化された少女のモチーフは、最近ではカニのモチーフへとその出現頻度を移行しつつあるが、円形の線描で描画されるカニは、「絵」であることを明らかに宣言しているというよりも、微妙にズレた、あるいはブレたレイヤーにその実態を置いていて、画面と相互作用するのか、しないのか、決定不能なところに漂っている。

 一方ではデザイナーとして名刺のデザインを手掛けてみたり、イラストはイラストでiPadでなんなく制作もしてみせている。多芸だなと思う。

 で、デザイナーとしての美意識と、イラストレーターとしての美意識と、画家としての美意識が、それぞれ独立しているのかといえば、まぁそんなことは普通になく、けっこう確固とした価値判断をして、その作品を成立させているようなのだ。

 

 しかし混合技法を使っていて、それが再現性を求めた結果ということでもなく、とはいえ技法どうしの異化効果を狙っているということでもない(勿論、異化されているのはあるのだが、それは画面にコンフリクトと呼べるほどのものは生んでいない。しかし存分に知覚されるものだ)。これは一体どういう温度感なんだろうなと思っていたのだが、ようやく見つけた言葉としては、これは「自然体にハイブリッド」なのだ。

 

 これはつまり、「俺はハイブリッドだぜ」「俺のユニークさはそのハイブリッド性にあるぜ」「それをレペゼンするぜ」と言いたい作家なのではなくて、「こっちのがいいでしょ」を集積していくと、技法が必然的にハイブリッド化していくということだろう。デザイナーもやり、雑貨の仕様や素材・材質にも詳しい藤田だが、そういった背景から、単なる画家でも、特定のカルチャーをバックグラウンドにオーセンティックな形式に「絵画化」しようということでもなく、単に「いい作品」を出力しようとした一つの形、ということになるのだろう。

 批評家からしてみれば、何かを代表せんとする動機が無ければ、その達成をはかることができない。だからこそ、随分と言葉にし難いなとも感じていたのだが、それは「自然体」と言ってみれば良かったのだなとも思う(とはいえ、作品を一口で言ってみせるのはなかなか難しい。したがって、これは是非鑑賞してほしいところだ)。

 そして何かを代表しようとしないことによって、そこに何が代表されるのか、という問題を考えるに、これは「現代」の「都市」で文化を享受し生きてきたある人間の感性、美意識、ということになるのであろう。現代の都市の文化の享受者は数多い。しかしながら、それを出力する多様な術を、統合してみせようという者はそうではない。人間は、現在に存在する技法を自由に選んでいるわけではないからだ。藤田は、(他の多くの優れた作家たちもそうだが)粘り強く多様な「物」と「道具」を触り続けることで、自分の美意識にストレートに解を出そうとしているのだ*1



*1: https://meifujita.myportfolio.com/painting まぁでもストレートに出た結果が「舐めると美味い石を探している」になるみたいなんですけど。わかります?