杉本憲相展と「キャラ・アート」について

中央本線画廊での杉本憲相展で感じた、杉本の真面目さと凡庸さは「キャラ・アート」とでも言うべきものが既にジャンル化したことの証左に思えた。

杉本が既存のキャラを扱う時に、2017年にらき☆すたを選択することの、絶妙な古臭さ。カオス*ラウンジが2010年にらき☆すたを選ぶことには、当時の環境としての必然があるが、それに対して今更ゼロ年代的感性であることの凡庸さ(キッチュですらない)。

画学生がキャラ絵を描きたがるのは別に悪いことではなく、絵を描き始める人間の少なくない数が、最初に自覚的に描き始めた絵はキャラ絵なのだから、キャラ絵そのものに原初的な契機が内在しているというのは正しいと思う。しかし芸術としてキャラを扱うとき、何を持って芸術の問題とするのかという手続きはどうしたって必要になる。

たとえば、キャラの芸術全般の立ち位置で見た時のキッチュさを扱う、というのならば、それはポップアートの方法論となろう。村上の奇形的ポルノグラフィーはまさにそういう方法論だし、会田もそうだ。

一方で、キャラの目といった強固な輪郭や、強固な固有名性をもち、強い現前性を有することに注目するならば、キャラは変形され、解体されるだろう。2009年の「解体されるキャラ」展で、JNTHEDや梅ラボを扱ったのは、(村上よりもむしろ奈良的なものかもしれないが)キャラ的な造形のペインティングが、批評的なジャッジを経ずにアートフェア等に現れてくることへの違和感があったからだ。

藍嘉比沙耶が90年代や00年代初頭に注目するのは、一周まわってはじめて、絵柄がサンプリング可能になるからだろう。「ちょっと古いものが一番ダサい」という消費の速度がどうしても影響してしまう。(それは、我々は享受している文化の文脈の連鎖を、身体的に受け取っているということでもあるのだろう。30年という時間によって適度に文脈が脱落してこそ、絵柄や「セル画」の質感が意味操作の具としてそれが扱えるようになるのだ。)

そもそも、絵の具を使ってキャラを描くというのは相性が良くない。白黒のマンガ絵をベースにするキャラ絵においては、Gペンを代表とするイリヌキのはっきりした線によって囲まれた輪郭の内側には、実際の紙は平面であるにも関わらず、仮想的(理想的)なヴォリュームが発生する。ここで重要なのは、実際には平面であるが故にそのヴォリュームが感じられるのであって、そこに凹凸があれば、人の目はそこに凹凸を見るということなのだ。油絵具というのは、筆の運動による微かな凹凸を演出することのできる画材なのだが、その画材を何故だか選択してしまうのは、ペインティング=アートというような固定観念なのだろうか。ここはもっと気を使ってほしいところで、藍嘉比もあいそ桃かも乙うたろうも、もっと表面を徹底してほしいなと思う。というか、村上すらも。その意味で、改めて考えると、谷口真人は盛り上がった絵の具で理想的な平面を描くことの困難には自覚的であったとは思うし、オースティン・リーのやっていることはやや保守的だと思うけれど、「表面」への扱いの丁寧さや、空間をきちんと違う視覚のモードに仕立てあげることについては素晴らしい仕事をしていたなと思う。