講評とは何か

最近、展示に行って「講評してくれ」と言われる機会が何故か立て続けにあり、困ってしまったのだけれど(つまり、上から目線を期待されてしまうと弱ってしまうわけなのだけれど)では、講評とは何か、それが批評とどう異なるのかを考えると、自分の行う批評行為がほとんど講評と変わらないことに気づく。

講評と何かと訊かれれば、要は美大での課題を制作し、提出、あるいはプレゼンし終えたのちのアレなのであるが、それにどのような機能があるのかといえば、それは当然、作品批評となる。

それはつまり、作品の達成を見極め、意図と結果について評し、体系における位置づけを述べ、歴史的にどのような類例があるのかを示し、作品の芸術性をより高めるための方策を示唆し、作品が内在する芸術的可能性を見出してやる、といった行為である。*1

言い換えれば、体系の中の位置づけを示せない講評は、被講評者の益にならないし、それはたとえばクオリティをあげる方策を示したとしても、その方向性をそもそも妥当とするのかという問いを問わなければ、十分な講評とは言えないのだ。

困ったことに美大における課題というのは、その課題設定に十全に答えるだけでは満点ではないのだ。その課題が持つ問題を批評的に取り扱うだけならまだしも、「その課題を梃子にどういった飛躍ができるのか?」といったものが求められてしまう、あるいは講評のときに高く評価されてしまう可能性がある。この事態を正統化するためにこそ、その課題の外側にある、体系や芸術性についての話ができなければならないのだ。そうでなければ、「ただ趣味におもねったからウケた」という誹りを受け、また誤解を広めてしまうであろう。というか、その正統化の作業が無ければ、それは「事実」趣味におもねっただけになってしまう。

振り返って、自身が作品に向き合うときの思考を考えれば、(日本に住んでいて美術の世界を見ていると、歴史的な傑作と向き合える機会というのはそう無いのだ。アニメとかは結構出会えると思う。)その作品が持つ美的強度を探し、それがどれだけ十全な方法で達成できているかを見ているのである。

講評というのは、歴史に刻まれた達成についての記述ではなく、いつでも作品の可能性についての言葉なのだ。私はそういう批評の言葉しか知らない。

*1:芸術性という言葉がピンと来ない向きは、クオリティとか、完成度と読み替えて大きくは差し支えない。っていうか、芸術性とは何か、という態度表明も、長い説明を要するな。