無人島にてを見て彫刻的とは何なのかとつらつら考えた。

京都に行き、「無人島にて」を見たのだけど、「彫刻充したぜぇ〜」という気持ちにならなかった。そこで、彫刻的な鑑賞体験(というか、彫刻充したぜ、という満足感のもと)とはなんなのかな、と考えたのだけど、やはり、一望できなさ、なんだろうなと思った。立体である限り、作品を一望できない。それをぐるりと見回していく中で、形態が認識の中で組み立てられていく経験こそがおいしいところである、ということなんだろう。(あるいは見上げるという経験も、それなりに重要に思える。)そういうぐるり性のあるのは唯一福岡道雄くらいであった。八木正の作品は、そういうぐるり性から最も遠いところにある物体で、そしてミニマルアートにかろうじて残っていた?というか、作品経験の質としての「演劇性」のためにこびりついていた?サイズや導線、回り込みの鑑賞経験みたいなものまでなくしているような。(これはあんまり妥当な議論ではないなぁ)。写真で見るとかっこいいんだよな。笹岡敬の作品は見ていてよかった。水蒸気の左右に振幅する揺らぎ方から、空気は振動しているんだなと思ったり。
一望性のなさでいうと、「絵画の複数の地平や複数の視点の導入による、視線によって追うことによる再構成」というのは、ちょっと鑑賞体験として近いかもなぁ。あとは、動画は一望性がないという意味で彫刻的。ループ動画ってそうすると彫刻的ともいえる。谷口曉彦の「日々の記録」の展示でぐるぐる回っているときには普通に見えるのに、操作した瞬間に堅さが出るのとかも、別の角度から面白い議論できそうなんだけど。ChairliftのEvident Utensilで我々は「表面」をこそ見るのだと思うのだけど、それもまた違うところの話。
ところで、パンティ&ストッキングwithガーターベルトの1話のストッキングの剣のシーンとか、動いてるのに全部の瞬間が絵としてばっちりキマってるっていう異常な事態が起きていて、あれヤバい。複数の瞬間が脳内で重ね合わさっておいしいというのと違う。どの瞬間もキマってる。