批評やめようと思った話

 

 ここから書くことは、記憶を頼りに書いている。記憶違いや、狭い視野での話になっているかもしれない。その点については断っておきたい。

 

去年の7月に激怒する案件があって、批評をやめようと思った。

 

 何があったのかというと、カオス*ラウンジの実質的な運営母体となっている合同会社カオスラにおいて、ハラスメントがあったという件だ。この件は確かカオス*ラウンジと共同企画を行うゲンロンの代表東浩紀twitterでなんだか匂わせたつぶやきをはじめ、あれよあれよとカオス*ラウンジとの提携を打ち切り、ハラスメントがあったと明るみに出た。

 黒瀬陽平の謝罪があり(黒瀬からはブロックされているが)、その後プレスが出るも(美術手帖もやたらと記事をつぶやきまくっていた)、「被害者のプライバシーが云々」と、詳細はうやむやにされたままだったかと思う。

 

 直前には、三越の新しいコンテンポラリーギャラリーで開催されていたパープルームによる「フル・フロンタル」展と、「吉村誠司」展会場で、両者挑発の末に吉村による人種差別発言があったとのインターネット上の書き込みをうけ、作家のHouxo Que(公開質問状の作成には長谷川新が協力)が三越伊勢丹HDに対して公開質問状を送っていた。カオス*ラウンジの展示にも度々参加するQueの公開質問状には、合同会社カオスラの社員である黒瀬、梅沢、藤城嘘、小松尚平も賛同者として名を連ねていた。

 

 激怒したその日は、たしか相模原のパープルームギャラリーの展示から、CASHIで梅沢個展、そのままQueらに夕食に誘われたが浅草橋のシェアハウス(ギークハウスではない)に久々に顔を出し、その後Queらに遅れて合流したのだった。

 

 前日がカオスラから「ハラスメントを確認し、第三者による調査を行う」という発表が成された日だったと思うが、パープルームギャラリーでは、梅津から詳細は話せないがけっこう大変なことになっているという発言や、黒瀬の批評的才能については惜しいので、今後も何かしらは書いてもらいたい旨の発言があった。これについては「そうはいってもしぶとく戻ってくるのでは?」と返した記憶があるが、告発があったのちに思い返せば、大きなことになっていた。

 

 CASHIでは梅沢が、マンガ『ブルーピリオド』の今後の展開について「藝大の闇も描いてもらいたい」という発言があった。これについては、はっきりとおかしいのではないかという感情をもった。合同会社カオスラの役員である梅沢が「ハラスメントがあった」とプレスを出した翌日に、他人事のように「藝大の闇」について発言していたのだ。(展覧会会場での雑談ではある。しかし梅沢は、展覧会会場での吉村の発言を問う、公開質問状への賛同者である。)「藝大の闇」の前に、「カオス*ラウンジの闇」について向き合うべきなのでは?というその姿勢に対して、しかしその場で、自分は何も言えなかった。

 

 遅れて参加した食事会では、Queがカオスの件について「動いてて凄い大変」とか「黒瀬は退職ということにしようと相談したのは俺」とかいうことを語っていた。(なので、後の「関知していなかった」というQueの発言には時系列がおかしいと感じたが、「記名時点では」ということなので、そこはそうなのかもしれない)「具体的な内容に触れることで公的に声を上げることさえ封じられるというのなら、勝手に情報を聞かされてインナーサークルの一味にされたくない」というようなことを言ってすぐに店を出たと思う。怒りで声が震えていたと思うが、慌てる周囲に対してQueが「大丈夫大丈夫、gnckはこういう奴だから」と言っていたことははっきりと覚えている。

 

 店を出た後に怒りが爆発した。

 

 何への怒りだったか。黒瀬の行いは聞く限りにおいて「かなりまずい」ことをしたという(その後告発が出た事によって、その内実は明らかになったわけだが)。しかし、会う人物の誰もが、黒瀬の件をどう「軟着陸させるか」ばかり語っていた。なおかつ、最も近くにいる人間は「藝大の闇」だのと呑気に言っていて(繰り返すが、プレス発表を行った翌日である)、自分たちの行いを顧みることもないのか。

 

 俺の批評は、別に誰に対しても行おうとしているのではないのだ。

 俺の批評は、JNTと梅ラボの二人展からはじまっているのだ。

 この2人を素晴らしいと感じることを、どうにか言語化できやしないだろうか。

 この2人の作品をどうにか下らなくないものとして擁護し、歴史に刻むことはできはしないだろうかと。

 

 この2人は、擁護し難さをも抱えている。

 

 一つは、デジタル画像という「正統なジャンル」から外れた隘路ゆえの難しさから。

 一つは、コラージュという、著作人格権を踏みにじりかねない行為から生まれるという難しさから。

 

 コラージュがアートとして擁護されるべき時は、どのような時なのか。それはその芸術性が、その技法からしか生まれえない批評性を孕むときだろう。

 コラージュは、人を怒らせるかもしれない。それは、創作物が愛され、創作者が尊敬されていることの証左だろう。しかし、その可能性を踏まえてなお、コラージュが作り出され、しかも公に向かって発表しようと言うのなら、それは批評性を第一に置くがための行為であり、道徳をひとまず二の次に置いてでも、やらなければならない使命なのだろうと。

 あるいは、別の形で、創作物や、その世界そのものを愛しているのだろうと。

 

 そう思っていたのだが。

 

 しかしそれは一方的な期待をかけすぎていたのだ。作品の素晴らしさと、それを扱うための倫理の持ち方は別だったのだ。そして、その程度のコミュニケーションも、自分と梅沢はとっていないのだ。

 

 批評なんかやめてしまおうと本気で思った。そのような発言もした。その時の振る舞いは、周囲にも随分と心配をかけてしまった。

 

 (その後QueからのDMでは「カオスラ側に責任を認めさせるために動いている」と言っていたが、荒れている自分とやりあっていても、Queが公開質問状の件に集中できないと思い、「あなたに過大な負担をかけて、本当もうしわけない。俺のフォローはどうでもいいので、やれることをやってくれ。」と送ってブロックした。最悪の後味で、泣いた。



 人が弱っているところに目をつける人間はいるもので、あまりに人の自由意志をないがしろにする発言をくらったことで、少し正気に戻り、恥をさらして批評の活動は再開した。

 

 しかし、別に絶望したことについては何も解決していないのだ。

 

 今年に入って、カオス*ラウンジを告発した安西彩乃の支援サイトについて、梅沢は「有志の方々によって安西さんの支援サイトがリリースされました。経緯や情報、支援の手段などがまとまっています。自分は元カオスラの役員という立場ですが、状況が少しでも良くなることを願います。」とつぶやいているが、事案発生時にはまだ役員だったのだ。そしてそのカオスラは被害者である安西に訴訟を起こしているのだが、そのことに触れずに「状況が良くなることを願う」というのはどういうことなのだろう。

 

 Queは公開質問状の返答に対する声明を、去年の9月に「今週中にも書く」と言ったままその後の動きはない。

 

 そこには「個別の事情がある」のかもしれないが、果たしてそれが「公的な声明を出さないこと」「公的な声明のリアクションに答えないこと」の理由になるのだろうか。

 

 記:2021/2/10