カオス*ラウンジ新芸術祭2015 市街劇「怒りの日」を見た。

9月22日に、上野駅発の特急に乗り、いわき駅で9月19日(土)から10月4日(日)まで開催されている、カオス*ラウンジ新芸術祭2015 市街劇「怒りの日」を見た。率直に言って、行って損は無い展覧会になっている。会場はいわき駅周辺の3会場を使用しており、それぞれに充実した展覧会となっている*1。第1会場は「もりたか屋」。1階には山内祥太のおなじみの手法である3Dスキャンを用いた映像作品があり、暗い部屋と鍾乳洞、そして3D空間という、会場と映像の構造が共鳴した鑑賞体験を作っている。2階には、村井祐希、藤城嘘梅沢和木、乙うたろうなど、絵画彫刻を中心としている。3階にはISISに捉えられているジャーナリストをモチーフとした今井新の新作があった*2。第2会場である平廿三夜尊御札受所には、キャラクラッシュ!展でも参加していた柳本悠花の、幼少時の記憶のような手触りの、フェルト作品がある。第3会場はやや離れ、山を登った菩提院にあり(ここを行く途中の八坂神社のあたりの道がなんとも感じがよい)、たかくらかずきのゲームはチープなサウンドと畳のにおいの組み合わせだけでやられてしまう。梅沢の襖絵は、震災以後の作のなかでは大分よい。また、第3会場の奥には、荒渡巌の画像の一本松と梅田裕のインスタレーションという構成。会期中はトークイベントなども開催されている。展覧会の構成は、駅を降り、町中からやや山の方へ行き、あの世を見て帰ってくる、というような構成になっている。「芸術祭」と銘打ち、無料の企画でここまでの展示をオーガナイズした企画者には恐れ入る。
しかしながら、展示を歩いていて、どうにも心の底から楽しめないというのは、これがどのような素晴らしい展覧会であっても、基本的にはこの方向性は「撤退戦」だよなと思うところだ。ここは個人的な見方が大いに関わってくる。
展示に先立って山本現代で開催されていたTHE 100 JAPANESE CONTEMPORARY ARTISTSにおいて、DOMMUNEの出演映像の中で黒瀬陽平が言うには、震災以降のカオス*ラウンジというのは「サブカルチャーが震災にリアクションしない。自分の中の理想の宮崎駿や理想の庵野秀明であれば、どうリアクションしたのか考えて、展覧会を行う」ということだ。しかしこれはまさに、カオス*ラウンジそのものがインターネットという命題をやはり回避していることを指しているように、私には聞こえる。DOMMUNEの中では、破滅*ラウンジをさして、「ネット万能論ではいられないと考えた」というのだが、そもそもカオス*ラウンジはインターネットに磁場を作り出し、その恩寵のまさに渦中にあった。そのインターネットの創造力をいかにアートとして召喚するかということこそが、「アートはインターネットに負けている」ということの根拠であったように思えるのだ。それはネット万能論か否かといった粗雑な総論ではなく、もっと具体的なプロジェクトとして存在していた。たとえば「再生*ラウンジ」は何故、どのように失敗だったのか?という問いを立ててみる、ということでその具体的なプロジェクトをより問うことができるように思う。よりクリティカルには、「炎上」の中にあった、インターネットが持つユーモアやウィットの部分をまさに「アートがインターネットに負けている」仕方で扱ったことを問うことで。*3あるいは「死人田」に放射能を連想する想像力というよりは、死人が出た時にそれを納得するための「呪い」という、人々の間にできる磁場と、インターネットの(人間のあいだの)呪いに関心を向けるべきに思えてしまう。*4
リサーチを行い、ある地方を舞台とした現代美術の展覧会を行い成功させるというのは、誰にでもできることではない。過去の土地への想像力を喚起すること、それ自体も魅力的なアプローチであるし、実際に成功している作品もある。しかし作家や企画者が、それを確信して表現へと接続させているのだろうか?エクスキューズに堕していないか、ということが、どうしても気になってしまう。そう、たとえば情報空間やメディアに出自を持っている「キャラ」を扱うという問題が、この展示の中では明らかに浮足立ってしまっている。土地の記憶とキャラの問題が接続することは(当然、不可能ではないと感じるのだけど)、まだ成功していないように思えるし、それを成したいと、本心から思っているのだろうか?と。*5
まぁ、こんなこと言われたら「じゃあお前がやれよ」と言われる類の話である。

*1:私が行った時には毒山凡太郎+キュンチョメ展もいわきにて開催されていた。Photoshop仮設住宅の住民に触れさせ、非難区域のバリケードをコピースタンプで消させることを通して、そこで発生する会話を見せていく試みは、「アートセラピー」と読んだ時には実は人々が期待していないような生のリアクションも露わにしており興味深かった。

*2:作家から、私に嫌われるかもしれない作品という言葉があったが、決してそんなことはない。というか、マンガなら別に大体どんな表現でも許せるよなと思う。物語芸術というのは、そういう許容範囲の広い芸術形式ではないかな。

*3:DOMMUNEの映像に戻れば、藤城嘘は震災以降のカオス*ラウンジについて「異質なものが同じプラットフォームでぶつかるというスタイル」に継続性を見るのだが、それは逆に言えばそこまで抽象的なレベルでしか継続性を見出すことができない、ということでもあるように思える。それはもはや別のプロジェクトなのだろう。オリジネイターがそのような認識であるならば、他者が残念がっても仕方がないことではあるのだが。

*4:展開すると津波そのものよりも、津波をめぐる人々のコミュニケーションにこそ注目すべきなのでは?といったような

*5:藤城嘘の絵画は、明らかに一時の精彩を欠いてきてしまっているように思える。曼荼羅的構図がどんどんと凡庸に収まってしまっているようにも見える。