梅ラボインタビューと『10年代の終戦』twitterまとめ。

梅ラボ自筆画のほとんどが白黒や、着色も原色を単色で塗るなど、やっぱ絵の具を使って色を使うと全然なのだが、コラージュでああいう色彩になるの面白い。ただ、絵の具を取り込んだ画像を扱う場合、やはり赤や青などの単純な色彩に溺れる傾向にあるように思う。空漠な白さと輪郭を持つ色面が並ぶ空間の方が、記号を享受できる空間だ。絵の具の黄土色と同じように、写真を取り込んだために茶色が増えたりとかは、色彩的によくないだけでなく、記号性の享受には向かない。

画像で見た京都の作品や阿佐ヶ谷では、かなり良さが戻ってきた感じはするが、キャラクターの解体や反復が殆ど無いのは気になる。許可取った作家は解体しないのかよ、となれば、そりゃ勝手に解体されてた人はいい気はしないんじゃないのかな。公式でやった初音ミクはかなりよかった。解体され反復されることの何が重要かといえば、流通している画像の何が流通しているのか?(画像のミームは何なのか?)を露骨に示しているからだ。そしてそれは、そのカルチャーに触れていなくては達成できないことでもある。

ブログにちょこっと上がってた習作の画像とかが、相当に本質だと思うのだ。弾幕と、記号。「弾幕的な構図」という発明。

梅ラボの魔法陣シリーズは、記号の享受性という意味ではあんまりよくないと思うのだけど、『10年代の終戦』の鏡の作品は今まで見た中では最も成功しているように見えた。これは、会場設計そのものが相当成功しているということでもあるし、相当会場設計をしなければ難しい作品でもある。そもそも鏡というのは、扱おうとすれば、鏡を「素材のレベル」に抑え込むことができるか、という戦いが始まってしまう素材だ。批評的な意味がどうこうとかでなく、作品より前に、鏡であることがせり出してしまう。視覚的特性を踏まえれば、円盤状の鏡の上にプリントをするというのは、かなり悪手のように思う。
『10年代の終戦』は、みっつくらいのレベルで話ができるように思う。作品展示の美的な話。展覧会テキストの話、そしてそれらが生み出す意味、キュレーションの話。端的にどうだったのかを言えば、「10年代の終戦」は成功した展覧会だと思う。それは、縦長の映像のプロジェクションに、紙飛行機のインスタレーションの影が落ちている。その不穏さそれだけで十全に成功だ。空間の設計は、視点の高さの移動。作家の作品の有機的な繋がりの見せ方。音響の設計など、どれも素晴らしい。テキストについては、戦後と災害についての詩的な想像力に依拠しつつも(それが気にはなるのだが)、ドキリとさせられる点がいくつかあった。
では、キュレーションそのものについて、つまり「戦後」について、作品からどう考えればいいのか、ということなのだが……つまり「戦争について考えなければ、先に進むことはできないのだ」という立場は、「大変なこと」が起きる前にこそ重要な言説だったのではないかと思うのだ。人々によって忘却されているからこそ、不穏さとともに表彰されなければならないもの、なのではないか。そういう作品は、どんなタイミングで作られても良い。しかしもはや「大変なこと」は起きてしまった訳で、もはや私たちはその「大変なこと」に、もっと個別具体的に向き合わなければいけないのでは。
まぁ、これは現状をどう認識するかという話でもあって、確かにもう忘却は始まっている。しかも、それについてどう言語化もし得ないというような、そういう経験だ。一方で処理すべきものは厳然としてそこにある。だから、この言葉にし得ないような感じ(戦争にせよ、震災にせよ)と、やらなければならないことが積み重なっている、そういう状況なのだ。そしてどうすればいいのか、途方にくれている。そして、途方に暮れずに何かできている人は、現場(被災地、という意味だけでなく)にいる人か、忘却してしまえた人か、その両方の人なのだと思う。

『GRAPHIC IS NOT DEAD.』 Vol.2 梅沢和木 ゼロ→テン年代を代表するアーティストが、今改めて口を開く - コラム : CINRA.NET
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