正しい選択とは何か。

“正しさ”“正しい選択”とは何か。それは適切な結果をもたらす行動といえばよいだろうか。たとえるならば、病気を治すために手術をするのか、霊感商法に引っかかって壷を買わされるのか、という違いだ。
しかし、この寓話からはいくつかの議論が見出されるだろう。まず、主観的に見た場合、病気が治れば手術だろうが、壷を買おうが構わない、という点。もう一つが、その正しさをどのように証明するのか?という点だ。

手術をする医師には医師なりの。壷を売る悪徳詐欺師には詐欺師なりの、病気が直るリクツがある。その“正しさ”をどう保障すればよいのか?

・科学における正しさ

科学における正しさは「ある理論モデル組み立て、それに従い、同一の条件の下で同一の操作をすれば同一の結果が得られる」ということを基礎として、理屈を組み立てている。
そこには常に「再現可能」であることが必要とされる。つまり誰がやっても「同一の条件の下で同一の操作をすれば同一の結果が得られ」ないものは科学ではない。その意味で、条件を提示できないものは科学的な誠実さに欠ける。逆に言えば、科学は常に質問に晒され続ける。その質問に答えていくことで「より正しさに漸近していく」営みだと言える。また、「正しさは条件設定しなければ決定できない」ということもこの手法においては重要な点である。

(科学を装う疑似科学について)

・政治における正しさについて

政治における選択において、正しさの根拠のひとつとして科学的な正しさは尊重されるべきだ。ダイオキシン問題の対応についても、その毒性がどの程度問題なのか。優先順位は妥当か。環境問題についても、効果があるのか無いのか、を“ただ不安を解消するために”でもなく“ただよいことだから”でもなく、何故それを行うのか?という理屈を最低限、今後比較検討できる形で決断しなければならないだろう。そうしなければ先に繋がらない愚策をいつまでも続けることになる。


・自覚について

無自覚に、正しさを主張することの醜悪さ。に私は耐えられない。これは一般的な感覚とは、少し程度が異なっているとは思うのだが。

先のたとえでいえば、壷を買うことで不安は解消したが、病気は治らなかった。というケースを避けるべきだ。あるいは、エコ商品を大量販売、大量生産、大量リサイクルの結果の環境の破壊を避けるべきだ。
特に政治的な事態(個人の問題ではなく、“わたしたち”の問題。決断が他者への影響を与えざるを得ない類の問題。)では、不安を解消するだけの方策は愚かしいと言わざるを得ない。その事態を避けるためにはどうすればよいのか?
賢明さをいかにして手に入れるべきだろうか?

・すべての判断の根幹となる思想(コンセプト)

問題の設定をしなければ、手法の評価はできない。この構造に自覚的であるのか無自覚であるのか、が問題だ。と感じる。「結局のところ何をしたいのか?」ということを決めなければ、手法は決定できない。戦術をいくら構築しようにも、戦略がなくてはまるで意味を成さない。コンセプトが決まらないことには、どんな素晴らしいイラストレーションも意味を成さない。
与えられた正しさの枠の中で、いかに戦術を組み立てるか、ではない。
(エコの時代だから、弊社としても取り組んでいる姿勢を見せたい?
 ○○の理論によるとこの絵画はこう読み取ることができる?
 日本のブランドとして「和」をコンセプトにしていきたいんです?)

正しさとは何か?を真摯に思考し、提案しなくてはいけない。