都築潤×中ザワヒデキ「ベクターvsビットマップ」@3331 メモ

10月23日18:00- 秋葉原にある3331にて、都築潤中ザワヒデキによる対談がありました。
(この記事はカンノによるメモです。覚え違い、主観による記事はご了承ください。敬称略。)

都築「Illustratorでは、いい線が引けたなー、とか、よくないなーというのが問題にならないことに驚いた。そこで、Photoshopを使用したところ、確かに画材感は出るが、拡大すると四角に埋め尽くされている。それにショックを受けた。そこで、また、解像度を上げろとか、アンチエイリアスをかけろと言われたが、拡大するとまだ残ってる。解像度に支配されていることにぞっとした。これは非常いまずい事態だと思った。
ペイントツールとドローツールはそれぞれ、木炭デッサンとクロッキーに対応していて、いままでは、紙と鉛筆で両方できたことが二つに分かれてしまった。融合させなきゃいけない。
Illustratorで、絵の「ありがたみ」、にじみやかすれ、ぼかし、紙のテクスチャー、ハプニング、未完成でも成立している感じを出そうとして、画面がパスで埋め尽くされていった。実はそうして、自分でピクセルに埋め尽くされた世界を描いていた。それが9年前の展示。180cm×180cmで、730KBの作品は、解像度へのアンチテーゼ。ただ、それを人に見せても驚いて終わってしまい、自分の問題意識とは違う。自分の問題としては絵の正体や、絵を構築する核のようなものがある。」

中ザワ「解像度夜解決には反対。89年の暮にソフトには初めて触った。マジックペイントVAというソフト。自分の場合、正方形をよろこびに感じた。ベクターへの違和感。」

都築「画素を構成することが、コンピュータで絵を描くことなのではないか。パスが見える、ピクセルが見えるからこそ、コンピュータで描くことのありがたみがあるのでは。
コンピュータを使うことで線が、物質的根拠のない観念的なものであるということが、以前から頭では分かっていたけれど、体で分かってきた。全てが物質であるなかで、それをやっていた、線というのは実は色だった。コンピュータというのは概念の世界で、コンピュータで色をやるのは無理がある。現実では線は引けない。」

中ザワ「コンピュータが概念で、現実が物質だという二項対立には反対。確かにそれも成り立つが、コンピュータが登場する前から、現実には概念という概念があり、線という概念がある。
イデア論と原子論は、プラトンデモクリトスの対立で、美術史もその変奏として読める。方程式、グラフというのがベクター。データベースがビットマップと言える。」

都築「ただ、ピクセルそのもは実は正四角形というベクターで構成されている。ベクターも、連立方程式がどんどん増えていけばデータベースになってしまう。

中ザワ「高解像度での解決や、アンチエイリアスでの解決は、拡大すれば誤魔化しが見えてしまうということ。絵描きとしてはちょっと賛同できない。ビットマップでタイルパターンをつくった。これがPCのマチエールだ!1990年の僕は思った。」

都築「最低限の物質感というのが、モニタの光だということですよね。」

中ザワ「プログラムを見てこれいいなっていうのを僕はやりたい。「新方法」というメルマガでもhtmlのソースを実際に見せるということをやってる。
赤の発色がよくないねーとか、ソースの#ff0000を見ろよ!発色が悪いとかありえないだろ!というの。」

都築「ドローイングするときは、白い紙を何もない空間として見る。木炭デッサンをするときは、白い紙を白い色で塗られている画面として見る。この違いが、IllustratorPhotoshopの初めの画面と同じだった。デジタルではこの二つが分かれていることが衝撃だった。」

中ザワ「それは、現実世界で80年代の僕が困っていた問題。色に線を入れるのはヘンだ。筆の線は太い。」

都築「折衷っていうのは出来ないんですかね。」

中ザワ「美術史でも形態派と色彩派に分かれる。ルネサンスフィレンツェ派とヴェネツィア派に対応する。それぞれ、セザンヌやスーラの点描に行きつく。折衷しようという人はいるんだけど、結局どちらかに分かれる。
ビル・アトキンソンがMacPaintとMacDrawを作ったときから分かれている。」

都築「なんで分かれてるのかは、じゃあビル・アトキンソンに聞けばわかる?梅津信幸さんに聞いた時にも答えが返ってこなくて」

中ザワ「返ってきてます。すぐに答えたのは、日本語と英語があるようなもんです、と答えて、じゃあ中国語や韓国語があってもいい、ということを聞かれて、「あ、それは考えていませんでした」といったのだけど、そのあとに「座標を主語にするかものを主語にするのか。その二つしか考えられない」と答えています。『芸術特許』のなかにあります。
パソコンというのはポストモダンの道具だと目されていたが、パソコンの中にモダニズムの権化を見た。
カントールというのは最終的に精神病院に入れられてしまったけれど、「これを解決しないと世界は不幸になる」という気持ちはある。」

都築「難しいこと言うと仕事が来なくなる。ただ、こうやって割り切ることで仕事も楽しく出来るようになった。」

会場からの質問「最終的にプリントアウトされるときには、点でプリントされる。そのことについて。」

都築「現実世界のものの方がメタファー。現在の展示ではiPadを使用しているが、iPadが出たから、展覧会をやった。」

カンノの質問「私はどちらかというとビットマップ派。ジャギーやjpgのブロックノイズに興味がある。そのような、デジタルなマチエールへの嗜癖については。」

都築「今は気持がわかる。パソコンが普及して15年くらいたち、そういうものが出てくるんだろうな、と思っている。今の2-30代のそういったものに、自分自身の問題としても注目しています。」

中ザワ「ジャギーjpegのノイズというのは演算の結果で、しょうがないもの。嫌なものだった。しかし、それをわざとやった瞬間にそれが表現になる。
表現としては獲得系(たとえば写真)と出力系があるが、獲得系としては高解像度が強い。一方、出力系はアンチアンチエイリアスになる。その方が表現の意志が明確になる、ということがある。
Photoshopは獲得系なので、高解像度は当然正しい選択だが、表現者としては、ちょっとそれだけでは、というところがある。」

会場からの質問「色と線という対立で話が進んでいるが、色というのはイデアではないのか?たとえば、ソースの#ff0000の話」

中ザワ「生理的色彩と、「線」と「色」というときの「色」は確かに別物。差異性、異なるものが隣り合っていることが、「色々」ということ。モノクローム絵画(単一の色彩だけで塗られている絵画)は、だから、その後ミニマル彫刻の方向に続いていく。」

会場からの質問「ビットマップの四角がベクターということは結局最後はベクターに還元されてしまうということなのか?」

中ザワ「ベクターを自明として成立するのが、原子論ではないか。「画素を問うな」ということが、ビットマップになる。」

都築「ビットマップは情報として複雑にするためには、積み重ねることしかできないが、正方形が色々な形ならば複雑になる。というのが自分の作品。」



感想
イデア論と原子論の対立は、世界観の違いなので、実際の絵画はどちらの見方も両立しうる=折衷は可能なのだと考える。たとえばセザンヌの絵画にも色彩=差異性を見出すことは可能で、複雑性=絵としての「ありがたみ」を備えさせるための方法論として、その二項対立は有効に使えるようにも思われる。だから、ビットマップ派であることが=色彩派であることを意味しないし、よい線、悪い線というのは、基本的にペインティングの問題であることが、Illustratorによって暴かれてしまったともいえるだろう。
また、画像がデータでしかないこと=演算により現前していることや、モニタの光を最低限の物質として用いていることそれ自体が、画像の魅力の一端だとも思う(個人的な嗜癖の問題?)。
また、SAIの機能の一つである、線描の補正機能は、タッチを作家性と見做すという美術史上の問題から見れば、衝撃的な事件と言えるはず。SAIは、ベクターとビットマップの幸せな統合を、PhotoshopIllustratorよりも先んじて実践している事例であり、今後も動向が期待されるのではないだろうか。


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http://www.recto.co.jp/verso/tsuzuki/都築潤展ニューエイドス 10月30日まで。
ベクターvsビットマップ_都築潤「ニューエイドス」展関連トーク - Togettertogetter