村上隆の五百羅漢展 (twitterまとめ)

村上隆の五百羅漢見た。かなりがっかりである。期待もあっただけに。
瓢箪のハーフトーンも画像で見た感じかなり良かったのに、色が全然良く無かったり、表面の磨きがまばらで、白い画面なのに光の反射が汚く見えたり(あれを工芸的というのはちょっと工芸舐めてるのではないだろうか…)、色彩にせよ、羅漢の顔にせよ、手札の種類は大して無かったりする。
村上が話のたとえにハリウッド映画を出すことがままあるけれど、予算は潤沢で、飽きないように一定のクオリティには達しているけど、ひっかかりの無い映画を見せられた気分。
解像度の最後の部分に目をいかせない脅迫性には満ちていて、手業と色数の努力賞にはなるけれど、自身がよく言うように天才性はほんとゼロ。
ただし立体は割とその嫌な感じがなくて、金ぴかでも別に恐怖心からやらしくなっているわけではない。のどちんこちゃんと作ったり、粘性のある感じの作り込みが良かったりする。黒い髑髏も、アレは光の演出ともあいまっていて良い。
主線をシルクスクリーンでやるのは、線の良さが一回死ぬので、そこをどう味付けしなおすのか、というのはMr.がやっていることだけど、その発展が師匠にあるのだと思っていたが、五百羅漢でも装飾によってどうにか保つのみで、装飾性が「駄目な方の装飾性」なのだよな。
五百羅漢の四図の中でも、螺旋の要素は良かったので、そこは発展可能なのではないかな。円相は全然良くないのだけど。
村上は、オタクに対して面白い時は、岡田斗司夫が言うように「勘違い芸」なのだと思うけれど、伝統画題についてもそうなのだろうな。勘違い度が低いとむしろ意味の読み替えも起こらない。
村上の活動が国際的アーティストになる一つのモデルケースなのだとすれば、それがやれる人間を美大で探そうとしてもかなり不可能な気がするが、作品だけ切り取ると方法論が明確なので、天才性が無くても全然やれる範囲という感じだよなこれ…
でかい作品でも、「全部に手が入っていなくても成立してしまう」その技術体系が絵画の神秘だと俺なんかは思ってしまうのだけど、まさに真逆の方法論で成立させようという作品群。しかし、「工芸品には及んでいない」。これってどこに到達したことになるのだろう。
日本画のフラットな空白は、周辺視野が作る奥行きのような空間であり、見つめる時には紙の目という繊細さが立ち上がるけれど(あるいは、箔の肌合いが)、そこがハーフトーンに置き換わると、その解像度で止まってしまう。それだと、ハーフトーンが埋草になってるだけに見えてしまうんだけどな。
いや、これはつまり、美大生の大量動員とかブラック労働とかではなくて、職人を死ぬほど使い潰したらいい作品できるよね、という話をしていることになるわけだけど。
最後の映像で出てきた村上の若い頃の映像や、学級委員長をリコールされた話などを見るに、村上もかつては若い作家だったわけだし、意外とトホホ感とかを愛すべき作家なのかもしれん。

水戸芸術館「田中功起 共にいることの可能性、その試み」(twitterまとめ)

水戸芸術館の「田中功起 共にいることの可能性、その試み」を見た。メインとなる作品は、6日間にわたるワークショップを撮影した映像を、複数のディスプレイ、スクリーンで上映するもので、すべての映像を見ると240分になる。他にはヴェネツィアビエンナーレ日本館で展示されていた、複数のピアノ奏者や複数の陶芸家で一つの作品を作り上げる様をドキュメントした映像作品が展示された。中々見る機会を作ることができないと思っていたが、結局最終日に行くことができた。水戸芸術館ははじめてである。当日はイベント「てつがくカフェ」も開催されていた。
メインとなる「一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置」は、そこに何か人間の共同性における本質が鮮やかに立ち現れるのかと言えばそんなことはない。たとえばワークショップの中で、ある種の「理想」が現前する瞬間が訪れたり、逆に「人間が持つ醜さ」が露呈したり、複数の人間がいることで引き起こされる様々な力学や事象はそこには捉えられない。それどころか、最後のディスカッションで議論が盛り上がりを見せた瞬間に、作家によって時間切れの宣言(それも、「キュレーターの育児がある」が「そのことじたいは議題にのせることができなかった」という言い訳めいたキャプションとともに)がなされる。いや、これ何を見せられてんのよ。単にこの映像の展示は、6日間の「ワークショップ」が「失敗」した様をただ見せつけられるだけのものであって、幾台ものカメラによる撮影、編集、複数の画面の展示という、膨大な仕事量の、あまりに優等生的で、真面目な愚鈍さにげんなりしてしまう。
それは同時に開催されていた「てつがくカフェ」でもそうで、冒頭30分に議論するとは、とかの前段階の説明が入って、ようやくスタートするときに「共にいるとはどういうことか自由に考えてください」とか、その状況に参与できる人種って、アートピープルの中でも更に相当特殊な人に限定されるわけで、ふわっとした入りから3時間半もの議論をさせようという、そういう特殊状況を設定しているにもかかわらず、大した内容も無いことになっている。前提を共有しない人々が、きちんと対話や議論を行うための司会進行はかなり高度な技術が必要だし、たとえば「言いたがり」が複数人いるだけで、そういう場は破綻しかねないわけだけれど、その終着点を参加者が共有できる有意義な議論は難しいのだが、それを「議論が起きたからよいのだ」とか「ワークショップをやったことで可能性が見えたのだ」というのは、何か理念らしきものを実現する技法というのがあるらしいがそれは成功せず、技法だけを輸入してさも理念ありげに見せつけるということになりはしないのか。
社会問題に関心があり、しかしそれを直接扱うアクティビズムのアートにはしたくないなぁ、というのは別に動機として間違ってないと思うけど、ならば抽象的な題目を立てる前に、社会問題そのものをつぶさに観測しないと抽象化を誤るし、それを普遍性のあるテーマとして作品化することも難しくなる。「特定のクラスタの人がなんかぐじぐじやってる」以上の見えにしなければ作品化しないだろうし、たとえばテレビのリアリティーショーの戯画的な仕掛けが共同性の問題をあぶりだすこともあるし、ドキュメンタリーのように編集が加わっている方がよりまだ面白さが見えてくる。なんとなく無加工っぽくしたい手つきで結局何も出来上がらなかったら、それは倫理的な態度ではない。

3Dスキャン面白いなぁという話

3Dスキャン(複数写真から生成する3Dモデル。呼び方3Dスキャンでいいのかなぁ。)面白い。具体的には、谷口暁彦と山内祥太、あとノガミカツキか。
思うに、3Dスキャンを見ることって、絵画しか知らなかった人間がはじめて写真を見た経験に近いのではないかな。「魂が抜かれている感じ」というか、3D写真は死体のようだ。山内祥太は反彫刻として、横たわる、力ない人体を作ったけれど、彫刻が「まるで生きているかのような」様相を目指すが故に、その反彫刻は死体が転がっているかのように見える。(つまり「物体」にはもともと生命が無く、「彫刻」は、それに命が与えられたようであり、さらにその命が失われた状態として、「山内の彫刻」がある。)3DCGは、形態を細かくしていく(皺や、毛を再現していく)というアプローチや、光の反射をシミュレートすることによってリアルな表現に近づこうとしていたわけだけれど、3D写真は、ざっくりした方向であっても、現実の色調を取得することで、そこに「生々しさ」や「空気感」が生まれてしまうということに驚きがある。
写真によって絵画が変質したことが、3D写真によって彫刻に起こりはしないかな?とも思う。しかしそれは彫刻ではなく、3DCGに起こっているのかもしれないなぁ。どうなんですかね識者の方々。

カオス*ラウンジ新芸術祭2015 市街劇「怒りの日」を見た。

9月22日に、上野駅発の特急に乗り、いわき駅で9月19日(土)から10月4日(日)まで開催されている、カオス*ラウンジ新芸術祭2015 市街劇「怒りの日」を見た。率直に言って、行って損は無い展覧会になっている。会場はいわき駅周辺の3会場を使用しており、それぞれに充実した展覧会となっている*1。第1会場は「もりたか屋」。1階には山内祥太のおなじみの手法である3Dスキャンを用いた映像作品があり、暗い部屋と鍾乳洞、そして3D空間という、会場と映像の構造が共鳴した鑑賞体験を作っている。2階には、村井祐希、藤城嘘梅沢和木、乙うたろうなど、絵画彫刻を中心としている。3階にはISISに捉えられているジャーナリストをモチーフとした今井新の新作があった*2。第2会場である平廿三夜尊御札受所には、キャラクラッシュ!展でも参加していた柳本悠花の、幼少時の記憶のような手触りの、フェルト作品がある。第3会場はやや離れ、山を登った菩提院にあり(ここを行く途中の八坂神社のあたりの道がなんとも感じがよい)、たかくらかずきのゲームはチープなサウンドと畳のにおいの組み合わせだけでやられてしまう。梅沢の襖絵は、震災以後の作のなかでは大分よい。また、第3会場の奥には、荒渡巌の画像の一本松と梅田裕のインスタレーションという構成。会期中はトークイベントなども開催されている。展覧会の構成は、駅を降り、町中からやや山の方へ行き、あの世を見て帰ってくる、というような構成になっている。「芸術祭」と銘打ち、無料の企画でここまでの展示をオーガナイズした企画者には恐れ入る。
しかしながら、展示を歩いていて、どうにも心の底から楽しめないというのは、これがどのような素晴らしい展覧会であっても、基本的にはこの方向性は「撤退戦」だよなと思うところだ。ここは個人的な見方が大いに関わってくる。
展示に先立って山本現代で開催されていたTHE 100 JAPANESE CONTEMPORARY ARTISTSにおいて、DOMMUNEの出演映像の中で黒瀬陽平が言うには、震災以降のカオス*ラウンジというのは「サブカルチャーが震災にリアクションしない。自分の中の理想の宮崎駿や理想の庵野秀明であれば、どうリアクションしたのか考えて、展覧会を行う」ということだ。しかしこれはまさに、カオス*ラウンジそのものがインターネットという命題をやはり回避していることを指しているように、私には聞こえる。DOMMUNEの中では、破滅*ラウンジをさして、「ネット万能論ではいられないと考えた」というのだが、そもそもカオス*ラウンジはインターネットに磁場を作り出し、その恩寵のまさに渦中にあった。そのインターネットの創造力をいかにアートとして召喚するかということこそが、「アートはインターネットに負けている」ということの根拠であったように思えるのだ。それはネット万能論か否かといった粗雑な総論ではなく、もっと具体的なプロジェクトとして存在していた。たとえば「再生*ラウンジ」は何故、どのように失敗だったのか?という問いを立ててみる、ということでその具体的なプロジェクトをより問うことができるように思う。よりクリティカルには、「炎上」の中にあった、インターネットが持つユーモアやウィットの部分をまさに「アートがインターネットに負けている」仕方で扱ったことを問うことで。*3あるいは「死人田」に放射能を連想する想像力というよりは、死人が出た時にそれを納得するための「呪い」という、人々の間にできる磁場と、インターネットの(人間のあいだの)呪いに関心を向けるべきに思えてしまう。*4
リサーチを行い、ある地方を舞台とした現代美術の展覧会を行い成功させるというのは、誰にでもできることではない。過去の土地への想像力を喚起すること、それ自体も魅力的なアプローチであるし、実際に成功している作品もある。しかし作家や企画者が、それを確信して表現へと接続させているのだろうか?エクスキューズに堕していないか、ということが、どうしても気になってしまう。そう、たとえば情報空間やメディアに出自を持っている「キャラ」を扱うという問題が、この展示の中では明らかに浮足立ってしまっている。土地の記憶とキャラの問題が接続することは(当然、不可能ではないと感じるのだけど)、まだ成功していないように思えるし、それを成したいと、本心から思っているのだろうか?と。*5
まぁ、こんなこと言われたら「じゃあお前がやれよ」と言われる類の話である。

*1:私が行った時には毒山凡太郎+キュンチョメ展もいわきにて開催されていた。Photoshop仮設住宅の住民に触れさせ、非難区域のバリケードをコピースタンプで消させることを通して、そこで発生する会話を見せていく試みは、「アートセラピー」と読んだ時には実は人々が期待していないような生のリアクションも露わにしており興味深かった。

*2:作家から、私に嫌われるかもしれない作品という言葉があったが、決してそんなことはない。というか、マンガなら別に大体どんな表現でも許せるよなと思う。物語芸術というのは、そういう許容範囲の広い芸術形式ではないかな。

*3:DOMMUNEの映像に戻れば、藤城嘘は震災以降のカオス*ラウンジについて「異質なものが同じプラットフォームでぶつかるというスタイル」に継続性を見るのだが、それは逆に言えばそこまで抽象的なレベルでしか継続性を見出すことができない、ということでもあるように思える。それはもはや別のプロジェクトなのだろう。オリジネイターがそのような認識であるならば、他者が残念がっても仕方がないことではあるのだが。

*4:展開すると津波そのものよりも、津波をめぐる人々のコミュニケーションにこそ注目すべきなのでは?といったような

*5:藤城嘘の絵画は、明らかに一時の精彩を欠いてきてしまっているように思える。曼荼羅的構図がどんどんと凡庸に収まってしまっているようにも見える。

キュレーションについて

雑然と書くけれど。(基本的にはキュレーターには直接伝えている内容である)
世界制作のプロトタイプ展始まる前には、2万字コンセプトからも、前回のwave展からも、あんまり何が言いたいとか無いんだろうなぁという風に見ていた。色々引用されても、頭よさげには見えるのかもしれないけど、そもそも読んでないからなぁ、みたいな。しかもそこから導き出されることとしては、作家の選出が狭い。
キュレーションというのは、自分が考えた限りでは、社会に対して、ある価値を展示という形式で訴えること、だろうと思う。さらに言うとこれは博物館システムと切り離せない問題で、収蔵庫は有限の面積であり、収蔵に支払えるコストは有限なので、収蔵するべき価値あるものはなんらかの基準で選別しなければならない。故に価値決定の闘争が起こる、ということになる。
実際に2度見たけれど、作家の選別に意外性や化学反応は無いように思える(ジャンルの幅はある。)。たとえばTOKIYAが展示空間でどのように作品を展開するのか、というのは結構命題として難題かつ重要なのだけれど、そこにどうアプローチするのか、とか。あとは、鑑賞経験を最大化とか、社会に表現を着地させることもキュレーターの役割と思うので、HIGUREのような車が1台通れるだけの、住宅街で、墓参りの後の家族連れが通り過ぎるようなスペースで、人が路上に溢れたり、デカい音出したりというのは大丈夫なのかな、というような、作品価値からは周縁的な問題かもしれないけれど、そういう運営の問題は気になりました。
や、手弁当で展示をやっている、というだけで、いいことなんだけどね。展示は無いよりあった方がいい。作品は無いよりあった方がいい。情報はないよりあった方がいい(あとで整理する)ってのがインターネットだからね。素朴にそう思うし。

あけましておめでとうございます。

2014年はいつになくあっという間に過ぎ去った年でした。主に労働者として忙しかったわけですが。
1年間何があったかと振り返ると、美術手帖の芸術評論募集で第一席になったことでしょうか。それに付随して、HIGURE17-15 cas、中野zingaro spaceや国分寺KoSAC、CAMPなどで話す機会を得たということでしょうか。展評も二艘木洋行展を美術手帖に書くなどしました。
2015年も変わらぬペースでできることをできるだけやっていきます。

Gレコはやっぱ1、2話が最高だったなという話。

Gレコ14話まで見たけれど、やっぱり1、2話が最高で、以降はうーんという感じ。キングゲイナーも1話が最高でしたね。基本的に話が立ち上がるところが好きというのはあるのだけれど、それだけではなくって、リギルドセンチュリーでは、宇宙描写の再定義、MSの再定義をやるぞ、という話に思えたというところが最高だった。
まず1話では、打ち上げではなく起動エレベーターを使って宇宙に上がっていく。ほとんど電車での旅行みたいなんだけど、行先は宇宙で、モビルスーツ実習をする。モビルスーツも、この時代には一度廃れた技術を復活させているので、完成されていたりオーバースペック過ぎたりはしない。まずレクテンは戦闘用のですらないし。「うお〜、ファイト!ファイト!」とかの儀式は、低重力下や無重力下だったら、気合入れるときはこうなるわな、っていう演出で、描きづらい角度でわざわざやってて良いわけです。はじめてモビルスーツにのるときのベルのわくわくした感じも、モビルスーツに乗るって、こんな経験なんだよ!というのが出てる。「動体視力が必殺兵器になるんだからな」っていうのは、今回の宇宙戦闘では動体視力おしでいきますよ、ということ。ミノフスキー粒子も緊迫感を演出している(クラウンが海賊に襲われる中で、どうにかモビルスーツに乗っているのは実習生たちだけ!)のだけれど、最高に痺れるのは、グリモアが地球ゆきのクラウンめがけて真下に飛んでいくシーンで、これ一発で「あぁ、宇宙空間は、こんなにも足元がおぼつかないんだ」「モビルスーツは宇宙戦闘機なんだ」っていうのが伝わる。レクテン対G-セルフが良いのは言わずもがななんで省略しますけど、作業用の機械をどうにか使って戦うっていうのはそもそも熱い展開である。(吉田健一の描いたキンゲの初期のイメージボードも、作業用シルエットエンジンが出てきたりしていたな)アイーダがつかまって髪の毛が広がるのも、「今回はちゃんと無重力描写しますよ!」っていうのと、「密閉空間はほこりが舞ってるし、においもこもってるんだな」みたいな演出になっていて良い(エンディングのベルリが髪の毛をしばっているのも、ノレドがああいう髪型なのも、無重力で髪の毛が広がるからかな?と思ったけど、別にそういう演出にはなっていない。1話中だと割とふわっとしてるようにも見えるんだけど)。
2話は、基本的にはモビルスーツの巨大さ演出で、空襲されれば甚大な被害が出るし(これはシリーズで繰り返し出てくる場面だけれど)、MSが水面に着水すると波が立ったり、木の橋を踏み抜いたりと、18mの金属の塊が動くとどうなるのかということがさんざん描写されていく。クライマックスのシーケンスがやはり良くて、グリモアの銃の薬莢が街灯を破壊するところから、巨大であるだけで持つ暴力性みたいなものが伝わる直後に、今までのUCのMSではあり得ない速度のパンチのラッシュ。そして絶叫。人間の10倍サイズの鉄拳があの速度で動くということだけで(別に強力なメガ粒子砲が、とかそんな話ですらなくても)いかに強大な力なのかというのが伝わってくるわけですよ。そりゃ「ビームサーベルを使います」「なんだって!?」ってなるよな、っていう。戦艦に乗ってドンパチやるだけの話ではなぁ、というところです。