GIFはどう硬く、JPEGはどうぬめっとしているのか

インターネット・リアリティ研究会の座談会の、「GIFとJPEGどちらが硬いか」という話題*1だが、これはGIFとJPEGの要件を考慮すれば簡単に理解できる*2。あと、ここでいう硬さはおそらく「よりソリッドである」という意味。

GIFが硬いのは、その圧縮方式が、色数を256色(あるいは、128、64、32、16、8、、、)に絞ることによってデータ量を減らす、という方式を採用していることによる。結果としてジャギーの矩形性や錆のようなノイズ=ソリッドさを感じる原因となっている。また、透過GIFにおいてもアルファチャンネルではなく2値のみのサポートのために、背景との境界線でのジャギーが目立つことも、たとえばPNG形式との違いといえる。

一方でJPEGが硬くない(youpyいわく、「ぬめっとしている」)のは、その圧縮方式が、画像を8×8pixelのブロックに区画し、それを周波に変換(離散コサイン変換)することによる。JPEGは、画像を周波に変換したのちに、データ的に影響の少ない高周波成分を削ることによって圧縮を行っているが、このときに、圧縮の影響によって、8×8pixelのブロックごとに、グラデーションがかかったような画像になる。これは、周波によって表現されていたブロックから高周波成分を削除したことにより、(単純なグラデーションのような)低周波の影響が増すため、このような像になる*3。それらが並ぶために、ブロックの矩形性があるにしてもむしろ、その内部の周波性(グラデーション的な像)が目につき、JPEG特有の滲んだような像になる。ブロック内部で色相がかなり違うと、もともとの像から離れたところが滲むのも、JPEGの周波性をよくあらわしている*4

参考 離散コサイン変換 - MATLAB & Simulink - MathWorks 日本
[画像処理技術の学習] - ISP 画像処理ラボ -- システム計画研究所/ISP --

メモとして。この機会にJPEGの圧縮方式をさらっとネットで調べてみたけど、この理解でいいのか。まぁ、目に見える部分については、グラデーション(周波による変換、描画)というところで理解すればよいと思う。

*1:ICC ONLINE | インターネット・リアリティ | 座談会「インターネット・リアリティとは?」

*2:ちなみに座談会での議論の射程は、ustreamyoutubeによって異なるリアルタイム性の感じられ方など、ここに書いてあることよりも広い。

*3:という理解であっているんだろうか……

*4:っていう理解でいいんだよね?

電子のメディウムは光を介在することで人の目に認識される。(twitterまとめ)

蒸気機関車が、現行の電車の車両よりも圧倒的に魅力的なのは、明らかにそのメカニズムのフェティッシュさゆえだ。蒸気がピストンの動きに変換され、複雑な機構によって車輪が駆動し、鉄の巨躯を疾走させる。その色気はメカニズムのワンダーだ。機構を明示する、仕組みを明らかにすることは、美的条件のひとつだろう。メディウムの明示とは「成り立ちを明らかにすること」に他ならない。目に見えない磁力で動くモーターは、魔法的すぎる。
機械式から電子式へ、というのは、物質的、物理的なメカニズムから、より抽象化されたメカニズムへの移行だ。産業的な可能性は言うまでもないが、機構が抽象化されているがゆえに、電子の世界はブラックボックス的(魔法的)なものになった。*1我々が電子の世界を把握するためには、電子の仕組みを暴く=電子のメディウムを明らかにするものが必要だ。機械へのフェティッシュは物質へのフェティッシュだが、電子へのフェティッシュは、光へのフェティッシュになるだろう。光は「代替的な表示」なのだが、その表示の制御、あるいは制御の崩れ、失敗によって、はじめて間接的に電子の働きを見ることができる。*2その制御(に関わる美的な性質)のことを「演算性」と呼びたいのだ。


*3

*1:iPhoneで画面の端までスクロールするとバウンドするが、電子機器にはそのような「現実世界のような手ごたえ」を与える余地がまだまだある。

*2:あるいは、光でなくてプリンタでも構わない。刺繍マシンであっても

*3:メディウムを明らかにするというのは、だから、魔法を魔法として(イリュージョンをイリュージョンとして)受け入れられない人間のための作法でもあろう。それは、「安心して魔法にかけられたい」ものへの攻撃でもあるが、魔法が理解できないことへの焦りでもあるのだ。イリュージョンの仕組みを仔細に観察できるものには、あえてメディウムを明らかにする必要はない。メディウムを明らかにすることが鑑賞者へのサービスとなる。筆跡を見せるというのは、手業を見せてやることなのである。

植物の美しさに感じ入ることができないものに、グリッチは分からないだろう。

演算が美しいとは、計算が美しいとは何を言っているのか。確かに意味がわからない。数学では時折、公式に対して「美しい」という言葉が使われるが、そのような整然とした法則の美しさ、といった意味なのだろうか。

「演算が美しい」というのは「自然は美しい」という言葉と近い。

演算性を称揚するときに、規則性や法則性を称揚していると捉えるならば、それは一面でしかない。たとえば自然界に存在する真に美しい法則は、たとえば巻貝を想像してみて欲しいのだけれど、単純すぎる数式に還元されるものではなく、法則性を伴いながらも、視覚的な喜びや、生命が持つ力(生命感)と重なることによって、その美しさが認識されているのではないか。イデア的に「法則(こそ)が美しい」わけではなく、ものの背後に法則があることが分かってはじめて「美しい」と言えるのではないだろうか。

演算を背後に含むということ。ドット絵やグリッチが画像の原理を示してくれるというのは、滝の流れに流体力学や重力を見出したり、樹木の枝別れに幾何学を見出したり、自然がその背後に様々な機序を持っていることを「知る」、「感じ入る」ことと同じだ。

植物の美しさに感じ入ることができないものに、(あるいは畸形に生命の神秘と魅力を発見しないものに)グリッチはわからないだろう。

画像の演算性の美学

gifの色数が2の倍数であること。ブロックノイズが8×8pixであること。ジャギーが矩形であること。グリッチが水平性を持つこと。プログレッシブjpegが徐々に解像度を上げて表示されること。画像の演算性の美学。

*1


「演算が美しい」と言うならば、普通連想されるのは、コードによって描画されるグラフィックや、あるいは、座標とベクトルという数式で描写されるベクター画像だろう。*2しかしここではラスター画像こそが演算性の引き合いに出されている。
したがって、ここで問題となっている「演算性」は、関数が描画する数学的な美ではなく、矩形の明滅が背後に抱えている原理がかすかにあらわれることの美学なのだ。それは、画像がインターフェースを介して触れることになる、動的な存在であることのあらわれでもある。つまりピュアグリッチや、本当の8bitだけでなく、意図的なグリッチも、8bitライクな表現も、0.5ドット*3であっても、そこに画像の美学はあらわれ得るのだ。


関連 都築潤×中ザワヒデキ「ベクターvsビットマップ」@3331 メモ - 隣の誰かと遠くのあなたを

*1:gnck:ジーエヌシーケイ on Twitter: "gifの色数が2の倍数であること。ブロックノイズが8×8pixであること。ジャギーが矩形であること。グリッチが水平性を持つこと。プログレッシブjpegが徐々に解像度を上げて表示されること。画像の演算性の美学。"

*2:「前田は、今日のコンピューターを使用したデザインが、演算というコンピューター本来の仕組みの理解を放棄し、ソフトウェア操作の組み合わせで終止してしまっていることを批判しました。そしてコンピューターを使ったデザインにおいては、計算やアルゴリズムによってもたらされるビジュアルの美しさこそが、デジタル・デザイナーの本当のスキルである、と主張します。つまり、コンピューターを単なるツールではなく素材と考えた時に、コンピューター本来の数学的な美に立ち戻るべきである、という考え方です。」(CBCNET > Dots & Lines > 土屋 泰洋 > 2. デザイナーズリパブリックからビジュアライジングデータまで。 あるいはコンピューターで絵を描くためのいくつかの方法について。

*3:「自負まんぬ」/「せいまんぬ」のイラスト [pixiv]

梅ラボインタビューと『10年代の終戦』twitterまとめ。

梅ラボ自筆画のほとんどが白黒や、着色も原色を単色で塗るなど、やっぱ絵の具を使って色を使うと全然なのだが、コラージュでああいう色彩になるの面白い。ただ、絵の具を取り込んだ画像を扱う場合、やはり赤や青などの単純な色彩に溺れる傾向にあるように思う。空漠な白さと輪郭を持つ色面が並ぶ空間の方が、記号を享受できる空間だ。絵の具の黄土色と同じように、写真を取り込んだために茶色が増えたりとかは、色彩的によくないだけでなく、記号性の享受には向かない。

画像で見た京都の作品や阿佐ヶ谷では、かなり良さが戻ってきた感じはするが、キャラクターの解体や反復が殆ど無いのは気になる。許可取った作家は解体しないのかよ、となれば、そりゃ勝手に解体されてた人はいい気はしないんじゃないのかな。公式でやった初音ミクはかなりよかった。解体され反復されることの何が重要かといえば、流通している画像の何が流通しているのか?(画像のミームは何なのか?)を露骨に示しているからだ。そしてそれは、そのカルチャーに触れていなくては達成できないことでもある。

ブログにちょこっと上がってた習作の画像とかが、相当に本質だと思うのだ。弾幕と、記号。「弾幕的な構図」という発明。

梅ラボの魔法陣シリーズは、記号の享受性という意味ではあんまりよくないと思うのだけど、『10年代の終戦』の鏡の作品は今まで見た中では最も成功しているように見えた。これは、会場設計そのものが相当成功しているということでもあるし、相当会場設計をしなければ難しい作品でもある。そもそも鏡というのは、扱おうとすれば、鏡を「素材のレベル」に抑え込むことができるか、という戦いが始まってしまう素材だ。批評的な意味がどうこうとかでなく、作品より前に、鏡であることがせり出してしまう。視覚的特性を踏まえれば、円盤状の鏡の上にプリントをするというのは、かなり悪手のように思う。
『10年代の終戦』は、みっつくらいのレベルで話ができるように思う。作品展示の美的な話。展覧会テキストの話、そしてそれらが生み出す意味、キュレーションの話。端的にどうだったのかを言えば、「10年代の終戦」は成功した展覧会だと思う。それは、縦長の映像のプロジェクションに、紙飛行機のインスタレーションの影が落ちている。その不穏さそれだけで十全に成功だ。空間の設計は、視点の高さの移動。作家の作品の有機的な繋がりの見せ方。音響の設計など、どれも素晴らしい。テキストについては、戦後と災害についての詩的な想像力に依拠しつつも(それが気にはなるのだが)、ドキリとさせられる点がいくつかあった。
では、キュレーションそのものについて、つまり「戦後」について、作品からどう考えればいいのか、ということなのだが……つまり「戦争について考えなければ、先に進むことはできないのだ」という立場は、「大変なこと」が起きる前にこそ重要な言説だったのではないかと思うのだ。人々によって忘却されているからこそ、不穏さとともに表彰されなければならないもの、なのではないか。そういう作品は、どんなタイミングで作られても良い。しかしもはや「大変なこと」は起きてしまった訳で、もはや私たちはその「大変なこと」に、もっと個別具体的に向き合わなければいけないのでは。
まぁ、これは現状をどう認識するかという話でもあって、確かにもう忘却は始まっている。しかも、それについてどう言語化もし得ないというような、そういう経験だ。一方で処理すべきものは厳然としてそこにある。だから、この言葉にし得ないような感じ(戦争にせよ、震災にせよ)と、やらなければならないことが積み重なっている、そういう状況なのだ。そしてどうすればいいのか、途方にくれている。そして、途方に暮れずに何かできている人は、現場(被災地、という意味だけでなく)にいる人か、忘却してしまえた人か、その両方の人なのだと思う。

『GRAPHIC IS NOT DEAD.』 Vol.2 梅沢和木 ゼロ→テン年代を代表するアーティストが、今改めて口を開く - コラム : CINRA.NET
eitoeiko

美術には造形のレベルと概念操作のレベルがある

色彩を考えること。形態を考えること。美術の営みにおける、形や色を作る行為・・・「造形」に照準をあわせれば、その造形に対する態度として
「造形によって何をするのか」
「造形そのものに深く沈潜していけるか」
という二分ができよう。普通、美術史を参照すれば、上を応用美術。下を純粋美術と呼び習う。

しかし、デュシャンの「泉」を一つのメルクマールとして描かれる、「反芸術」の試みは、「造形そのものを問う」態度ではない(芸術性、あるいは芸術そのものを問う姿勢ではあるかもしれない)。つまり、上記の二分法に従ってしまえば、デュシャンの「泉」は「応用美術」ということになってしまう。しかし普通、デュシャンの仕事を応用美術と呼ぶものはいない。
デュシャンが便器によって明らかにしたのは、何かを美術作品だと呼ぶ、その制度の在り方だということは、間違いがないだろう。しかしそれは、造形を、色や形をいかに考えるかという問題設定とは別の次元の問いである。
「美術史」と「デザイン史」という捉え方で造形の歴史を俯瞰し、ましてや美術史を単線的なものと捉えてしまうと、この「問いの次元」につまづくことになる。