美術には造形のレベルと概念操作のレベルがある

色彩を考えること。形態を考えること。美術の営みにおける、形や色を作る行為・・・「造形」に照準をあわせれば、その造形に対する態度として
「造形によって何をするのか」
「造形そのものに深く沈潜していけるか」
という二分ができよう。普通、美術史を参照すれば、上を応用美術。下を純粋美術と呼び習う。

しかし、デュシャンの「泉」を一つのメルクマールとして描かれる、「反芸術」の試みは、「造形そのものを問う」態度ではない(芸術性、あるいは芸術そのものを問う姿勢ではあるかもしれない)。つまり、上記の二分法に従ってしまえば、デュシャンの「泉」は「応用美術」ということになってしまう。しかし普通、デュシャンの仕事を応用美術と呼ぶものはいない。
デュシャンが便器によって明らかにしたのは、何かを美術作品だと呼ぶ、その制度の在り方だということは、間違いがないだろう。しかしそれは、造形を、色や形をいかに考えるかという問題設定とは別の次元の問いである。
「美術史」と「デザイン史」という捉え方で造形の歴史を俯瞰し、ましてや美術史を単線的なものと捉えてしまうと、この「問いの次元」につまづくことになる。