『ネット絵学』(百化)に寄稿しました。

ネット絵学

ネット絵学

  • 作者: 虎硬,エス,NUL,八田モンキー,shirakaba,とりかわ,にほへ,いとまん,1047,ギバ=リャン
  • 出版社/メーカー: project百化 販売:密林社
  • 発売日: 2012/05/05
  • メディア: ムック
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百化によるイラスト批評本『ネット絵学』に「「キャラ絵」とは何か?」と、イラスト用語集を寄稿しました。ウェブイラストという領域の拡大に対して、批評がまったく追いついていない状況の中にあらわれた、非常に重要な、充実した内容になっています。
「ネット絵描き」へのインタビューやコラムなど、文化史的にもちょう重要な一冊なので、是非手に取ってください。

百瀬文個展「なぞる人々」

3月2日から7日まで、新宿眼科画廊にて開催されていた百瀬文個展「なぞる人々」を見てきた。

会場には3つの映像作品と、ひとつの立体(+映像)作品があり、それぞれバリエーションがありつつも、映像というメディアへの言及としての個展であった。作家自身が登場する一見私小説的な映像や、カラオケというメディアを題材にした作品もあったが、《Take2》と題された作品が最も興味を引いた。(人によってどの作品がよかったかという、好みが分かれる展示だったようだ。)

《Take2》はこれまでの百瀬の作品同様に、構造的であり、「映像」に対する言及としての作品だ。作品についての解説はできるし、それを読めば作品の構造自体はすぐさま了解できるのだが、文章で記述された構造と百瀬の作品の鑑賞体験は全く異なる。

この作品を見終えた時の感覚は、優れた短編SFの読後感のようだ。さらにいえば、詳細に解説すればするほど、それはただの野暮で愚鈍な記述に過ぎなくなってしまう点が、この作品の持つ強度を示している。その強度は、状況設定や、照明のスイッチング、カチンコといった映像のリズムを基底となして生み出されており(役者も、監督役の百瀬の芝居(?)もよい)、その反復の中で鑑賞者自身がその構造と、映像の演劇性への自己言及に「自ずから気づく」ことが特筆すべき(あるいは作品としての成立の前提である)点だと思われる。

脚気検査》のような、過去の「ナンセンス」な作品から地続きでありながらも、映像への自己言及に鑑賞者自身が気づくような構造を備えることで、とても質の高い作品となっている。映像の演劇性への言及と、鑑賞者が気付く構造は、2011年1月の武蔵野美術大学卒業制作展での作品《breathing》とも同様のものだ。
映像というメディアへの、大上段でもなく、あまりに卑近でもない、正面からの批評的な眼差しと、作品化の手つきが素晴らしい。

作品は、新宿眼科画廊で購入することができる。


百瀬文 MOMOSE Aya – ayamomose.com
新宿眼科画廊 なぞる人々 http://www.gankagarou.com/sche/201203momose.html

「インターネット アート これから」ちょこっとお手伝い

ICCで開催されている、「インターネット アート これから」
二艘木洋行とお絵描き掲示板展を少しお手伝いしています。

お絵描き掲示板展はこちら

会期中のイベントにて、お絵描き掲示板話や、二艘木作品トークなどあるかも。です。

梅ラボキメこな騒動について。あと卵白ラジオ

創造性の話。

・「ネットの画像コラしてアートとかwww」という話に対して
創造性、新規性、独創性、批評性があるのがアート。梅沢和木は以前から、キャラの画像をコラージュする作品を作っていた。がそれはアートになり得る(創造性、新規性、独創性、批評性を獲得しうる)と思っている。また、これまでの梅沢作品にはそういった芸術性があると思っている。(解像度がそろっていないのは、それは画像が画像であることをあからさまにするためのものでもあるし、切断面を見せるためでもある。)画像がデータである以上、魅力的であれば「ウィルスが拡散するように」画像も拡散していく。キメこな画像もtumblrで流れてきたものを見たのが最初で、そこではもう「コミュニティでどのように扱われているか」という要素は取りこぼされてしまっている(ファイルが無いよ状態)。

・「じゃあふたばってアートだったんや!」という話について
これは「創造性」という意味ではその通りだろう。「キメこな」は「キャラクター」という存在に対して私たちに新しい視点をもたらしてくれる。パーツから連想する素材になったキャラクター。「ハンコ絵」のような批判に対しての「じゃあ本当に規格化してやるよ」とした場合どうなるのか?ということも見せてくれる。つまりキメこなはアート。
で、上記のような「芸術性」を梅沢作品は持っている。キメこな登場以前から画像をコラージュする技法で作品を作っており、その作品は「キャラクター」に対しての批評性(キャラクターってなんなんだろう?と考えるときのヒントになるような視点)を持っている。

・キメこなを使うのってどうなの?
なので、今までの梅沢作品はアートだと思うし、同様に「キメこな」もアートなのだが、今回、「創造性」「芸術性」という点においては、「キメこな」は梅ラボ作品ではない、ということが問題になると思う。今までの梅ラボ作品は、作家がコラージュをすることが、創造性のある行為だった。しかし今作においては、キャラクターの本質を明らかにするような仕事をしているのは、ふたばの職人であって、梅ラボがそこにどのような「芸術性」を加えることが出来たのか?が問題になる。(「芸術性」という観点からすれば。コミュニティについてはまた別)


文化とかアートに関しての話

・リスペクト無いよねという話
これは、村上隆のキュレーションに対して書いたことだけれど、「画像で既にアート(=芸術性を持っている)」「キャラ絵で既にアート」なのであって、それを「絵の具で描いたからアートになる」と捉えているのであれば(村上本人はそう明言はしていないが。)それはセンス無いし、もともとの文化にリスペクト無いよね、ということを書いた。今回も構図としては同様で、「キメこながアート」なのであって、それをキャンバスに貼り付けたからアートになるわけではない。それをやるならば、きちんとした「翻訳」が必要で、乱雑な盗用や無理解は非難されてしかるべきだろう。

・キュレーターの責務
Ustで、キメこなを使用したことについての黒瀬陽平の「それは程度問題ですよね」とかは、本当に最低の対応で、アートという観点からも、ふたば民に対しても、オーディエンスに対しても誠意がない対応だろう。前述のとおり、「キメこな」の本来の芸術性に対してどれだけ梅ラボが迫っているのかが重要なのであって、それは「程度問題」と片付けられないだろう。対話する態度ではないし、自己防衛的な発言と取られても仕方がない。仮に批評家の言葉であってもキュレーターの言葉ではない。キュレーターというのは、数ある作家の中から「本当に価値がある」と確信したものを世に問うたり、そのビジョンを提示するのが仕事であって、画像をフラットに見ることで、世界がどう変わるのかビジョンを提示するべき。
Ustで、梅沢作品の芸術性について語らないというならば、何故出演したのかわからない。梅沢作品はカオスラウンジそのものとは別だが、仮にカオスラウンジ宣言によって立つところによって作品を擁護するなら、それをオーディエンスに開くのがキュレーターの役割であるし、梅ラボ作品の芸術性について熱く語るくらいして見せなければ、誰も納得しない。

・作家とキュレーターの相違
黒瀬は「画像としてはフラットに見る」という発言をしているが、梅沢は「キメこな」と認識しており、作品の中央に配置するほどある意味で「愛して」いる。(その愛し方がコミュニティにとってどういったことになるのか、また別問題だったのだが。)「画像に現れる欲望に興味がある」と言明した梅沢の方が「ビジョンの提示」という意味では誠意がある。

・ふたばの文化について
で、コラはアートなんだな!画像は使っていいんだな!と言って本気でコラ祭りを始めたふたばはやっぱり生成力があって、その芸術性というか、創造力は凄いポテンシャルだな、と思う。ただ単に悪意的なコラ画像だけでなくて、ちゃんと「ネタ」にして面白いものにして盛り上がっているし。で、この創造力をどう扱うか、というのが(芸術性という意味でなく、制度とかの狭い意味での)アートの課題なのだと思う。カオスラウンジはそこに挑戦しているもの(「現代アートはニコ動に負けている」)というポジションだったはずが、ふたばに攻撃される身になった。

・で、結局どうなのか
梅沢作品としては、今作は今までの作品と明らかに異なっており、作家自身が地震をうけての作品だと言及している。その中でキメこなを「匿名の想像力が生み出したもの」と解釈しており、この点はふたば民とは見解を異にするところだろう。
作品というのは、基本的には「実物を見てみないと分からない」が、要点はキメこなの創造性とどれだけ格闘出来ているか、ということになろう。


ちなみに梅沢和木については論文『想像の欲望をめぐって―キャラ・画像・インターネット―』に書いたので、興味ある方は連絡いただけるとデータお送りできます。
(敬称略)

日本画ZERO展について

雑感。まとまらず。

1.日本画の問題

日本画についておさらい。
日本画という区分は「学問的妥当性」、「国策的意義」、「市場的価値」それぞれで判断されるべきであろうが、それぞれ意味を失ってきているのだろう。「日本画」というのは、「日本で描かれている絵画」の意味ではない。明治期のお雇い外国人であるフェノロサが、官僚に向けた講演の際に発した「Japanese picture」ないし「Japanese painting」という言葉の訳であり、その後内国絵画共進会によって推奨されていく絵画形式を指している。

フェノロサの講演をうけ、内国絵画共進会や東京美術学校では、日本の伝統的な、掛け軸、巻物などの形態を排し、模写を禁止し、正統的な「絵画」を墨、膠系に限定し、それ以外の焼絵、染絵、織絵、縫絵、蒔絵を「工芸」として、正統絵画の位置づけから排除した。フェノロサに講演を依頼した竜池会は官僚と画商からなる団体であり、ジャポネズリーにわく西洋へ、いかに外貨獲得のための美術品を輸出するのか。国会開設対策としての国民教化(=国民国家化)をいかに行うか、という国家戦略のうえでの美術の制度化であった。
オリジナリティーの重視は従来の「本歌取り」のような伝統的なスタイルを否定しており、「日本的」という意匠をまといつつも西洋の価値基準へと合わせたものであることが分かる。北澤憲昭はこれをマイルドな、あるいは隠蔽された西洋化と述べる。日本画は、西洋列強という他者との出会いによって、「日本の絵画」を作り上げようとして生まれた形式だ。

国家戦略的意識から形成された日本画は、日本のナショナルペインティングとして存続するためには、時代や社会状況に合わせたアップデートが必要であるが、大学という研究機関においては、それが行われてはいない。*1つまり、学問的、国策的な意義は失われている。

市場的な動向については明るくないが、はじめに対外輸出品として成立したにもかかわらず、いつのまにか家元制度的な「日本画道」化した日本画は、世界的な市場価値を持たないのだろう。現在のアートマーケットはグローバルであり、そこでの市場価値を持てなければ、日本のローカルなマーケットが縮小していく以上市場価値は保持できない(これは工芸分野でも同様だろう。)。

日本画はすでに死んでいる。
、、、と、戦後「日本画滅亡論」の時に言われてから日本画は戦後の復興と相まって90年代初頭までマーケットを基盤に延命しました。、、、というか、大ブームの絵画ジャンルとなりもしました。しかし、バブル経済崩壊後、日本画は日本社会そのものからはじかれてしまい、今、寄る辺を失っています。

彼らは日本画科に入学した事を根拠に、日本画の存在意義の自明性を疑っていませんが、卒業後、その同数の数百人の日本画科卒業生が実態に立ちすくむのです。 つまり、社会にはじかれてしまった事実に気がつく。それでも日本画の根拠を信じ、活動し続けはするものの、ここ20年は生きているのか、死んでいるのかさえわからない、日本画の根拠はゴースト化してしまいました。*2

で、ここ。長いけど引用。

ココで少し昭和日本画の歴史をおさらい。
東京芸術大学日本画科学閥を基準とした価格設定。
教授だから幾ら。助教授、講師、助手。
在学時に博士課程後期中退、大学院卒、学部卒、と学内のステイタスがイコール作品の価格、みたいな設定で運行した時期が25年程続いていた。
院展、創画、といった画壇別の価格設定もある。(東京芸大日展系がいませんでした)
日展=かつての帝展が日本画壇の総本山だったのだが、日展は80年代頃より東京芸大に入り込まず、戦後の東京芸術大学ヒエラルキーのすり替えにあい権威失墜。
、、、と、言うような日展院展、創画、この3つの公募展の政治抗争も日本画を壊死させた原因でもあった。
否。ここに銀座の数件の画廊も絡まり、マーケットのテリトリーウォーズ、交換会での人工的な価格操作、大掛かりな脱税等があいまって、芸術的な文脈以外でも大混乱していたとも言える。
その中、作家(学生達)は生き残りの方法を模索するも、その矛先は作品の芸術的観点ではなく、政治的文脈へと流れ込む。
教授をはじめとする先生達への顔色伺いが「お仕事」と勘違い。
結果、画業本道の道筋探索等はおざなりになっていた。
つまり作品は無惨なゴミの連発。マーケットも見る目無く、というか、政治
献金代わりに使われていた時代もあり内容等は何でも良かったという背景も手伝って批評的観点はほぼ無し。
なので糞絵画を東京芸大ブランド根拠に大枚はたいて購入してた。核心部分は置いてけぼり。些末な人間関係が主軸になる。つまりお客様は置いてけぼり。で、業界破綻となったわけです。
今の日本画の学生はこうした政治抗争も知らなくなってしまってて、地方の風呂敷画商の誰それさんがホテルのスペースで展示会やってくれて売れたとかなんとかで、一喜一憂している有様。なさけない事おびただしい。
、、、ここだけ読むと笑っちゃう阿呆な攻防ですが、これ、渦中にいると笑えない。
今の日本の政治、原発、いろんな問題点と同じ構造に思える。*3

「いろんな問題点」というのは、「高度成長を前提とした社会構造」と「低成長時代の社会」の齟齬かな、と思う。

2.「日本のアイデンティティ」あるいは「日本イメージ」について
「日本のアイデンティティ」なんて話をすると、何故か急に鎌倉期から江戸期の日本の文化のイメージばかりになる人がいるのだが、現在の日本は世界的な先進国であり、世界トップレベルの都市文化のある清潔な国であり、SONYTOYOTA任天堂の国だ。そして今や地震原発の国である。
日本のポップカルチャーにおける「オタク文化」の重要性は今更語らないが、「浮世絵」と「オタク」を直結させてしまうという判断は、「日本イメージ」からしたらステレオタイプが過ぎるし、それ以上に狭い。浮世絵は、江戸期の日本の消費文化の成熟度の高さを示すものであるが、美術の文脈では「西洋への影響」から逆算して語られる、という点を忘れてはいけないだろう。あくまで「本流のART」があって、そこへの影響、という構図であるなら、それはしょうもないんじゃないの?ポップカルチャーを引用して「絵画」にトランスレーションすること自体は別に悪いことではないが、日本画が死んでいるといいながら、「画像」のもつ可能性に関心をよせないというのであれば、参照するカルチャーへのリスペクトが無いんではないか。

3.キュレーションについて
第一部について。

ジンガロのサイトに載ってる各作家のステイトメント。ここに絡んで来る人は皆無。*4

と述べるのだが、正直あのステートメントは「作文」だし、それを衆目にさらす遣りくちエグいな。とも思う。それをやって、制度が変化するのか?というと、微妙だし。
ステートメントは作文じゃねえ。自分の美意識を社会に叩きつけるのがアーティストだろうよ。」というのが基本的には鑑賞者の欲望で、本心がどうあれ思い込みが激しいところを見せてかないとキャラ立ちが弱いし。それをマネジメントするのがプロデューサーの役目だろう。作文を見せられて読み取ってあげよう、というのは教育者の視点で、鑑賞者のそれではない。

第三部については、「<日本画>あらため<日本マンガ式絵画科>誕生」となっているのだが、<日本マンガ式絵画>でなく<科>とするということは、美術教育制度についてのビジョンの提示があるのかと思いきや、「礼儀作法」の重視とか、それは結構だが、マンガと日本画とどう考えるの?ということについては、よく分からない。日本画へ<日本マンガ式絵画>を代入するというのは筋が悪いんじゃないか?日本画が死んでるのと同じくらい油絵も面白くないし、<絵画>そのものを再編する必要があるんじゃないだろうか。<日本マンガ式絵画>ではなくて<キャラ絵>が既にアートなのではないか。<キャラ絵>の<画像>が既にアートであり、それを歴史的に「アートにしていく」ことの方がエキサイティングであり、現代の作家がすべき仕事だろう。死んだ日本画に目もくれず、キャラ絵の画像を作っている人間たちが歴史の先端を走っているのであって、データはアートじゃないけど、その作家たちに筆を持たせて描かせたものが「アートだ」というのだったらセンス無い。*5

JNT作品は、ツールを利用したhack的表現の追及や、オタクカルチャーへのコメンタリーなどの構造に着目するべきだ。今回のペインティングではツールを開発しながらの制作を行っており、新しい表現を生み出すというアーティストの本義を地で行っている。構造的にもサイズに対応してディティールを作りこんできているが、まだまだこれからを期待したい。

JNTの作品の持つ可能性については展覧会「解体されるキャラ」を開催し、論文『想像の欲望をめぐって ―キャラ・画像・インターネット―』にも書いたので、興味ある方にはDL用URLを送ります。また、APP storeでの配信を計画中です。
ていうか、よくみたら展示歴に「解体されるキャラ」入ってないし、アイコンのドット絵ニアレストネイバーで拡大して無いし・・・*6

*1:これはしかし、「洋画」あるいは「油絵」という区分でも同様であろうが。

*2:http://hidari-zingaro.jp/category/art/nihonga/

*3:http://hidari-zingaro.jp/2011/05/web_curator/

*4:展覧会を観て 2011年5月3日:村上隆(5月4日加筆) | Hidari Zingaro

*5:ヒダリジンガロはギャラリーだし、マーケットはペインティングを求めているのであれば、それは商業上の要請としては妥当だろうけど、アートに対しては不誠実じゃないか。

*6:http://hidari-zingaro.jp/category/art/nihonga/n0-manga/#jnthed

【地震】無事です。情報について雑感など

3月11日午後2時46分ごろに地震がおきました。東川口の小学校で授業後の片づけ中で、その後反省会予定でしたが、中止。サイゼで電車復旧待っていましたが、予想以上に被害が大きいようだったので、友人宅へ避難。真夜中に緊急地震速報でおこされる。
翌日12日、伊勢崎線の復旧を待ち無事帰宅しました。めっちゃのどかな陽気でした。

当日は、電話回線を圧迫しないよう、電話を最小限にし、メールでのやりとりを主に。ただし、auは新着問い合わせしないとメールを受信できない状態になっていました。

チェーンメールでのデマは二件ほど来ました。内容は火災により有害物質が雨に含まれます、というもの。無視。送信者への返信もせず。二つとも訂正メールが来ました。以前よりは全体としての情報リテラシーが上がっているような気がする。

東京電力から節電のお願いがあったので、家族に報告し、はやめの食事準備。東京電力|東京電力グループサイト

原発情報は、専門家、現場に任せるほかない。現場では人死が出ている。専門家の話聞いてもこちらは判断しようがないし、現地の人の方が健康被害、命にかかわっている上に日頃から学んでいるに決まっている。東京でのほほんとしていられるうちはのほほんとしておけばよい。

twitter、テレビなど見続けていると、みんながみんな叫んでいるかのような、情動を揺さぶる情報の洪水になっています。祭りとしては十分だけど、南関東は電車が混乱した以外は別に普通。報道を見続けるだけでも、トラウマになったりします。俺は秋葉原の通り魔事件の報道に張り付いていて、いまだに思い出すのがつらい。

荻上式ブログでのデマ情報まとめ、next49さんの関東在住者向けの提案などでひとまず落ち着く。

情報の検証については、今祭りのように声を上げても仕方ないと思うので、(「おちつけ!」って叫ぶほどパニクるので)後々かな。つぶやくと落ち着かないのでブログ記事にしておく。

画像オフ 参加者募集します!

画像オフ

【停電、電車の運休などもあるので、中止する可能性もあります。最終判断は19日に行います。】
【停電回避しました。開催します。】

終了しました。参加者の皆様、会場を提供頂いたmograg garageさま、ありがとうございました。
オンライン会場

企画者 gnck 山本悠

会場:mograg garage (国分寺
日時:3月20日 3時-6時

内容

gnck、山本悠、チバガクによる画像MTG赤羽を前身とする、「画像」について「画像」好きが喋ったり作ったりするオフ。
いまのところ
・ひとり5枚の画像(自作・他作問わず)を準備してのプレゼンテーション。
・みんなで画像いじる
gyazoを使用し、画像オフ用tumblrアカウントに画像を流す。
【追記:winのひとはgyazowin+を使用したいと思っています。】
・ustによる中継
・さいごzipにする
らへんで考えています。
ジャギーに萌える人や、Photoshopを使える人や、tumblr中毒の人、ふたばのコラ画像コレクションの整理方法について話したい人など、画像に関することならなんでもありのオフにしたいと思います。是非ラップトップを持ってご参加ください。

参加予定者
gnck 山本悠 チバガク にったあきひろ BEMU 寳樂圭 N_A

今回は残念ながら不参加
荒渡厳 コイワイソウイチ 梅ラボ 大滝翼 


ちょっと気になるなー、という方はコメント欄か@gnckまで連絡いただければ、詳細決まっていき次第、追ってご連絡します。
メンツによって、オフの内容が色々変わってくると思うので、なんか気になる!という方でも是非喋りたい!という方でも是非是非声かけてくださいー。