植物の美しさに感じ入ることができないものに、グリッチは分からないだろう。

演算が美しいとは、計算が美しいとは何を言っているのか。確かに意味がわからない。数学では時折、公式に対して「美しい」という言葉が使われるが、そのような整然とした法則の美しさ、といった意味なのだろうか。

「演算が美しい」というのは「自然は美しい」という言葉と近い。

演算性を称揚するときに、規則性や法則性を称揚していると捉えるならば、それは一面でしかない。たとえば自然界に存在する真に美しい法則は、たとえば巻貝を想像してみて欲しいのだけれど、単純すぎる数式に還元されるものではなく、法則性を伴いながらも、視覚的な喜びや、生命が持つ力(生命感)と重なることによって、その美しさが認識されているのではないか。イデア的に「法則(こそ)が美しい」わけではなく、ものの背後に法則があることが分かってはじめて「美しい」と言えるのではないだろうか。

演算を背後に含むということ。ドット絵やグリッチが画像の原理を示してくれるというのは、滝の流れに流体力学や重力を見出したり、樹木の枝別れに幾何学を見出したり、自然がその背後に様々な機序を持っていることを「知る」、「感じ入る」ことと同じだ。

植物の美しさに感じ入ることができないものに、(あるいは畸形に生命の神秘と魅力を発見しないものに)グリッチはわからないだろう。