梅ラボキメこな騒動について。あと卵白ラジオ

創造性の話。

・「ネットの画像コラしてアートとかwww」という話に対して
創造性、新規性、独創性、批評性があるのがアート。梅沢和木は以前から、キャラの画像をコラージュする作品を作っていた。がそれはアートになり得る(創造性、新規性、独創性、批評性を獲得しうる)と思っている。また、これまでの梅沢作品にはそういった芸術性があると思っている。(解像度がそろっていないのは、それは画像が画像であることをあからさまにするためのものでもあるし、切断面を見せるためでもある。)画像がデータである以上、魅力的であれば「ウィルスが拡散するように」画像も拡散していく。キメこな画像もtumblrで流れてきたものを見たのが最初で、そこではもう「コミュニティでどのように扱われているか」という要素は取りこぼされてしまっている(ファイルが無いよ状態)。

・「じゃあふたばってアートだったんや!」という話について
これは「創造性」という意味ではその通りだろう。「キメこな」は「キャラクター」という存在に対して私たちに新しい視点をもたらしてくれる。パーツから連想する素材になったキャラクター。「ハンコ絵」のような批判に対しての「じゃあ本当に規格化してやるよ」とした場合どうなるのか?ということも見せてくれる。つまりキメこなはアート。
で、上記のような「芸術性」を梅沢作品は持っている。キメこな登場以前から画像をコラージュする技法で作品を作っており、その作品は「キャラクター」に対しての批評性(キャラクターってなんなんだろう?と考えるときのヒントになるような視点)を持っている。

・キメこなを使うのってどうなの?
なので、今までの梅沢作品はアートだと思うし、同様に「キメこな」もアートなのだが、今回、「創造性」「芸術性」という点においては、「キメこな」は梅ラボ作品ではない、ということが問題になると思う。今までの梅ラボ作品は、作家がコラージュをすることが、創造性のある行為だった。しかし今作においては、キャラクターの本質を明らかにするような仕事をしているのは、ふたばの職人であって、梅ラボがそこにどのような「芸術性」を加えることが出来たのか?が問題になる。(「芸術性」という観点からすれば。コミュニティについてはまた別)


文化とかアートに関しての話

・リスペクト無いよねという話
これは、村上隆のキュレーションに対して書いたことだけれど、「画像で既にアート(=芸術性を持っている)」「キャラ絵で既にアート」なのであって、それを「絵の具で描いたからアートになる」と捉えているのであれば(村上本人はそう明言はしていないが。)それはセンス無いし、もともとの文化にリスペクト無いよね、ということを書いた。今回も構図としては同様で、「キメこながアート」なのであって、それをキャンバスに貼り付けたからアートになるわけではない。それをやるならば、きちんとした「翻訳」が必要で、乱雑な盗用や無理解は非難されてしかるべきだろう。

・キュレーターの責務
Ustで、キメこなを使用したことについての黒瀬陽平の「それは程度問題ですよね」とかは、本当に最低の対応で、アートという観点からも、ふたば民に対しても、オーディエンスに対しても誠意がない対応だろう。前述のとおり、「キメこな」の本来の芸術性に対してどれだけ梅ラボが迫っているのかが重要なのであって、それは「程度問題」と片付けられないだろう。対話する態度ではないし、自己防衛的な発言と取られても仕方がない。仮に批評家の言葉であってもキュレーターの言葉ではない。キュレーターというのは、数ある作家の中から「本当に価値がある」と確信したものを世に問うたり、そのビジョンを提示するのが仕事であって、画像をフラットに見ることで、世界がどう変わるのかビジョンを提示するべき。
Ustで、梅沢作品の芸術性について語らないというならば、何故出演したのかわからない。梅沢作品はカオスラウンジそのものとは別だが、仮にカオスラウンジ宣言によって立つところによって作品を擁護するなら、それをオーディエンスに開くのがキュレーターの役割であるし、梅ラボ作品の芸術性について熱く語るくらいして見せなければ、誰も納得しない。

・作家とキュレーターの相違
黒瀬は「画像としてはフラットに見る」という発言をしているが、梅沢は「キメこな」と認識しており、作品の中央に配置するほどある意味で「愛して」いる。(その愛し方がコミュニティにとってどういったことになるのか、また別問題だったのだが。)「画像に現れる欲望に興味がある」と言明した梅沢の方が「ビジョンの提示」という意味では誠意がある。

・ふたばの文化について
で、コラはアートなんだな!画像は使っていいんだな!と言って本気でコラ祭りを始めたふたばはやっぱり生成力があって、その芸術性というか、創造力は凄いポテンシャルだな、と思う。ただ単に悪意的なコラ画像だけでなくて、ちゃんと「ネタ」にして面白いものにして盛り上がっているし。で、この創造力をどう扱うか、というのが(芸術性という意味でなく、制度とかの狭い意味での)アートの課題なのだと思う。カオスラウンジはそこに挑戦しているもの(「現代アートはニコ動に負けている」)というポジションだったはずが、ふたばに攻撃される身になった。

・で、結局どうなのか
梅沢作品としては、今作は今までの作品と明らかに異なっており、作家自身が地震をうけての作品だと言及している。その中でキメこなを「匿名の想像力が生み出したもの」と解釈しており、この点はふたば民とは見解を異にするところだろう。
作品というのは、基本的には「実物を見てみないと分からない」が、要点はキメこなの創造性とどれだけ格闘出来ているか、ということになろう。


ちなみに梅沢和木については論文『想像の欲望をめぐって―キャラ・画像・インターネット―』に書いたので、興味ある方は連絡いただけるとデータお送りできます。
(敬称略)