ゲンロン5刊行記念トーク 東浩紀×梅沢和木「視覚から指先へ」を聞いた(twitterまとめ)

昨日の東浩紀梅沢和木トークは「視覚と視覚以外」という区分が面白く、そこから「人を分断するメディアと人を連帯させるメディア」と敷衍されていた。会場からの質疑にこたえる形で、東がまだ自分の中で説得的に語ることができない事柄(自分の中では理路として成立している)を語ろうとしており、そういうものに何らかの形を与えようとするという意味ではむしろ東こそアーティスト的だった。

思想家が「物事の捉え方に視座を導入」している話はとても面白いのだが、作家は思想家の大胆な切り口で自身の作品の持つグラデーションが見えなくならないかには敏感であるべきだ。たとえば「身体性」という時に「指先の身体性」とひとくくりにするべきなのか、マウスとタッチスクリーンの道具の差異に重要性を置く作家であるのかは、明らかにすべきだろう。たとえば絵画論で語られる「筆触」という語をひとつとっても、「道具の(インターフェイスの)身体性」が作品に刻み込まれることが示される。梅沢和木については「解体されるキャラ」の中で「Photoshop的身体性」と言ったこともあるけれど、自動選択や、切り口のジャギーのような細部や、レイヤー構造といった、道具の固有性が現れてくる。そこで鑑賞者が感じるのは、道具による操作の痕跡(ということはつまりありえたかもしれない一手=操作可能性)だろう。それはやや飛躍するが、トークに出ていたゲームプレイにおいてプレイヤーがカメラを支配できること(操作可能性)と通底してくる話とも思う。

音ゲー弾幕シューティングが一方ではコメント弾幕やもう一方ではtumblrtwitter的なタイムラインの「ストリーミング・ハイ」的な感覚が時代的な共感覚として作品に結晶したのは、梅沢初期作品における明らかなる達成だと思うが、画面に結晶するべきものや、インターフェイス的感性が適切にアップデートされているかというと微妙だろう。自分より後の世代の小林健太のタッチスクリーンに言及していたが、後続がやっているからいいや、というのでなく、適切に現代的な視覚感覚にアップデートする努力はあってしかるべきだ。作中において、何度も再引用されるパーツを見ると自家中毒的と思わざるを得ない。近作はパーツが細かくなる傾向があって、その物量性を指して「触覚的」な方向に振れているというなら指摘としては正しいかもしれないが、作品として成功させるためならもっと(もともと筆触的なフィールドである)絵画をたくさん見た方がいいだろう。「単に時代を反映するだけが作家ではない」は見識だと思うが、同時に時代に連なるならば過去の達成に対し、一体なにで比肩するのかを突き詰めないとならない。

「連帯させるメディア/分断するメディア」という区分で面白いなと思ったのは、音や声は同心円的に空気を揺らしているので、それはみんなを一つにするメディアなのだということとインターネットの性質で、「見たいものに目を向ける」というのは区分で言えば明らかに「視覚的」なのに、twitterの投稿は「つぶやき」と呼ばれ、さらには「エコーチャンバー」とまで呼ばれるわけで、人は「見たいものを見ている」感覚ですらない(これこそ世論だと素直を思い込んでしまう)装置ということになるなぁという点(ただ、過去のメディアにそのような性質が無いわけではないか)。東が「俺カーナビ使わないんだよ」みたいなことを言っていて、そういう感覚的なレベルの個人的な偏差の話も東の方が興味深く聞こえた。