梅沢和木が扱うのは、キャラの死体か

震災は人々の生を断片化し瓦礫に変えた。被災者にとってかけがえのない思い出の品が、そこではあらゆる意味を剥奪され、物質へ還元され、「ゴミ」に変えられてしまった。それは耐えがたい経験だが、しかし不可避の現実でもある。オタクたちが愛するキャラクターを断片化し、アーカイブ化し制作の素材とする梅沢の方法論は、この点で震災の暴力を先取りしていたと言うことができる。他人の愛するものを「ゴミ」に変えてしまう暴力。だれがいかに愛するものであったとしても、あらゆるものが「ゴミ」に変えられてしまう瞬間があるという残酷な事実。それこそが梅沢の作品の本質である。

2013-12-26


意味が剥奪され物質に還元されてしまうのは、エントロピーの話、すべてのものが死に向かうという話であって、それを梅ラボ作品に適用しても、あまり適当ではない。梅沢作品にあるのは、そのような耐えがたい、不可避の現実を知らしめる効果ではなく、情報化した消費社会を生きる主体の姿だ。

梅沢作品の本質にある画像の暴力性というのは、物質ではなくて、すべてが情報化されてしまうことの暴力性*1であり、すべてが情報化されるが故に、コピーされ、流通し、引用可能であることなのだ。手元のデータが一切変化することなく(手元のデータを、元の持ち主が愛するままに)、無数の違う愛され方がありうることが、情報の本質ではないか。

梅ラボ作品は、故に、情報化社会における、所有の欲望の問題に触れている。(梅沢作品には、インターネットに流通しているもの=キャラの画像ばかりであるがためにむしろ、個人とネットの境界=UI=ウィンドウズの×ボタンや、ブラウザのフレームが現れることで、鑑賞者はそれが「インターネットの風景」を単純に取り出した図像ではなく、梅沢というbotのように(動物化した)欲望に赴くままの主体が、しかし自分とは違う視点=フレーム=ブラウザを持っていることを意識せざるを得ない。)画像への加筆、アニメーターやイラストレーターが生み出した線の追体験は、キャラへの「愛」あるいは、「所有欲」だ。「輪郭をなぞる」というのは、二次元にしかいない、情報でしかないキャラを得るための行為なのだ。*2

梅ラボはキャラの死体をあつかっているわけではない。(キャラを(「キャラのおばけ」性を)殺してしまっていては、梅ラボ作品の魅力は無い。)(梅沢は、キャラは死なないからうらやましいという旨の発言をしている。)意味を剥奪するのではなく、まったく逆に、どんなに分解されようと、そこにキャラのアイデンティティが、キャラの現前性が残ってしまう単位を梅沢は用いている。梅ラボ作品を見て、そこにゴミ性「しか」見いだせないのであれば、それはキャラの記号性に対する感覚がない者、キャラのデータベースにアクセスできないものだろう。

他者の例でいえば、「キャラを殺し切れていない」=キャラを匿名化しきれないが故に、作品の全体性を失っていしまっているのが金氏徹平(の一部のシリーズ)だし(さらにいえば、それがごろごろと並び、まざまざと見せつける様こそが、むしろリアリズム=死体を描く系譜には近い)、キャラを殺している=生かせていないのは、黒瀬陽平のモノクロのシリーズだ。

これは状況論でしかないが、アート側の、カジュアルなキャラへのすり寄りに対して、キャラの本質と交わる仕事をしたのが、梅沢和木であり、また、まさに「運営の思想」に(過度の数値化に)さらされ*3、高度に爛熟したマニエリスムへの鮮やかな回答として、その果実をもぎ取り、並べ立て、調理したのが、梅沢和木だ。

キャラの記号性が現前性を得るというのは、根本的な矛盾がある。つまり記号というのは、反復可能な、形式として固定されたものだ。その記号を用いて生命を、キャラを生き生きと描くという行為には矛盾があり、その矛盾を解決するために、記号的形態の、変化や変形が要請される。アニメートやデフォルメとは、そういう技術である。*4アニメやイラスト、マンガにおけるそれらの技術を、梅沢はゲーム的な画面と応答する感覚と、記号への欲望によって絵画へと組織したのだ。



とりあえず、梅ラボ論についてだけ。*5

私自身の梅ラボ論は、『創造の欲望をめぐって―キャラ・画像・インターネット―』、または現在予約受付中の、「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI -交錯する現在-」展カタログに寄稿しています。

*1:まさしく黒瀬陽平が指摘したように、あるいはグーグルのデザイナーの挿話のように、感性的な美を用いることを専門とするデザイナーにさえ、1ドット単位のデザインの調整(それはモダンデザインにおける、デザイン感覚の肝である)を、統計的事実で説得せよと迫ることもまた、情報化の一端だ。

*2:あるいは、老いて死んでしまうもの、腐って、食べたらなくなってしまうものを、永遠とするための祈りだ。

*3:greeにおけるゲームとゲームユーザーの関係は、サービスの提供者と消費者の関係であるが、pixivにおいて数値化にさらされるのは、各ユーザーである。

*4:藤城嘘のドローイングが揺らぎを孕んでいるのも、同様の帰結であろう。それが絵画になる際には、ドロッとした脂っぽさではなく、しゃばしゃばの水っぽさとしてあらわれている。

*5:ちなみに、「誰もが当事者性を持つための仕組みがなければならない」というのは、非常に重要だし、東電の立場を文学的に分有するというのは、面白いと思います。そこにネットの炎上や、クレーマー問題を重ね合わせるのは、ちょっと違うかなと思います。「文房具宣言」のような応答は、もっと早くにやって盛り上げることを期待していた。