危険な消費淘汰スパイラル/消費者の作法

デザインという営み(というか、産業活動か)を生物の進化にたとえると、多くの知見が得られるのではないか、というのは多く言われてきたことだと思うのだけれど、消費者の選択を性淘汰として読み替えられる、というのが小谷育弘の論だった。

市場原理とハンディキャップ理論 - 隣の誰かと遠くのあなたを

じゃあ、性淘汰ってなに?というと。コチラ。

2004-11-11

性淘汰においては「異性に選ばれること(あるいは得ること)」自体が目的となり、それは「個体の生存」とは必ずしも一致しません。メスまたはオスの「好み」に、何かのきっかけである「傾向」が生じたとします。するとその「好みの傾向」はたとえ個体の生存に不利であっても、代を重ねるごとにどんどん強化され、集団に広まっていくのです。

つまり、社会にどんなダメージを与えようが、売れる物はより売れるような傾向が強くなっていくということ。

これを抑制するための方法は、一つは、ルールを作って社会に対する被害をなるべく少なくするというもの。法令順守、というやつ。

そしてもうひとつが消費者側の選り好みを変える、という方法。

やまけんの出張食い倒れ日記:そろそろ日本の農業を守るということについて、真剣に書いていこうと思う。 世界では、食料の輸出をストップする国がたくさん出てきているということをご存じですか?

最近、食の安全関連の本がよく見かけられるようになったが、その多くが「どうすれば安全な食品を、、、」とか「○○○はいけない」とかそういう内容であるようだ。それらの本は無意識的に「消費者のために世の中をどうすればいいか」を書いているように感じられる。

しかし、そういうアプローチは世の中を何も変え得ないのではないか、と思う。
つまり、これから必要なのは「消費者どのように変わるべきか」ということなのではないか、と問いたいのだ。

詳しくは上の記事を読んで欲しいのだが、このまま行くと日本の農業は「消費淘汰クラッシュ」を起こしかねない状況に来ているようだ。

安い商品を手に取る陰で、生産者が悲鳴を上げている。それが幸せな世の中なのか?健全な世の中なのだろうか?

消費者意識をどう変えるのか?それには、マクロな影響力がなければならない。これは、二つの柱を用意できるのではないか。一つは教育。そして一つはマスメディアではないかと思う。
おそらく、マスメディアというのは、長期的な影響や、根本的な影響力を期待するものではない。ただ、空気を変える力を持っていると思う。その日一日の気分。そのひと時の気分。あるいは、ごく短いフレーズの埋め込み。公共広告機構のCMのような、まずは問題を浮かび上がらせる装置。そういうフックがあれば、教育に対するサポートとして大きなものになるのではないか。教育では、問題はそうやって取り上げられたことだけではないこと。自分たちで課題を発見し、どうやって解決していくべきか考えることを教え、そしてそれを実行する能力を鍛える。

それができるのは、多分行政だけだろう。そして、そういう行政を鍛えられるのは、適切な世論でしかないのではないか。不適切な世論は更なる混乱を引き起こすのみだろう。

混迷の時代だからこそ、目指すべき道はある。我々は消費者/選択者としてどう振る舞うべきか。消費者/選択者の作法とはなにか。ただ無自覚に、安くてよいものをその場で選べばよい時代は終わっているんだ。ただ提示されたものから選ぶ、というだけでは足りないんだ。「誰かがどうにか考えてくれる」と投げ出すものに権利はないのだろう。
まずは自覚するのだ。