しかしながら

健全さに置いてけ堀にされてにっちもさっちも行かない人はどうすればいいのだろう。


ん??


いや、大きなお世話である。大きなお世話であるんだけれども。


つまりこれははてな界隈におけるモテ非モテ論争なんかとも半ば関わりがあるような問題でもあろうし。


健全の対義語が不健全であるが、その他にあげるとするならば、軟弱とか脆弱とかそういうことになるのか??なんかマッチョの話みたいになってきたな・・・。


どうせ失敗するなら初めからやらないという振る舞いは、いつか行き詰まりを引き起こすから避けるべきだというのが、さいしょ「健全さ」を意識した出来事だったように思うのだけれど・・・
斜に構えたっていいけど、それで何もしないのとはまた別であって。


中二は中二らしくということなのか。というと、いやいや、なにか違う。
中二病の中二が健全か、というと、不健全とは言わないけれど、健全さとも何かが違う。ような。あれ?
中二病に対するつっこみは、まさしくその青臭さと、視野の狭さと、偏見に満ちた精神を浮かび上がらせていて、中二病のまま行動しては、よい結果を招かないであろうことが分かる。
いや、しかしそれをつっこむ側の人間がそれを笑える立場にいるのだろうか?ということを皮膚感覚(?)として自覚しているか否かがなにか分かれ道ではないか。どうだ。


間違えるから踏み出さないのではなく、常に間違いを孕むからこそ、それを覚悟し、あえて踏み込んで、間違いながら、是正し、選んでいく。


中二病は、だから、格好いいんだ。
いや、格好よくないけども、それでも彼らは、その狭い世界と狭い視野から、何かを選び取っているいるんだ。そして、その視野の狭さは僕たちも実はそんなに変わらない。その恣意性に気づいて、陥りがちな罠に気をつけられるようになっていけばいい。
愚かしさを憎むあまり、常に安全な「正しさ」に安住していることの愚かさに気づけないではだめだ。
正解というのは、飽くまでも事後的な判断であって、指針にはなれど、絶対普遍のドグマではない。


と、いうことが健全さだとして、はて、それをどう伝えていけるのか?
うーん。そもそも、問いに対して正解が対になって存在している、というモデルだけで世界を捉えるというのが、どうなのよ、ということなのであって、世界は多面的な切り口がある、では、どの切り口を見ればいいか、というところで頭を使うべきだ、というのが最近のトレンドでなにやらNHKまでが「地頭力」なる言葉を持ち出している、とするならば。(頭のよさを「頭力」と言わないのに地頭のよさを「地頭力」というのは最近の「○○力」ブームがここまできたかと感慨にふけるばかりである。)


うーん、そもそもにっちもさっちも行かない人とか具体的に誰だよ。
健全性に置いてけぼりにされるという表現が訳わかんないんだよな。
つまり、適切に失敗する機会を持たなかったために挑戦することに対して強いストレスが生じてしまう類の人か。
となるとやっぱり、シロクマ先生の諸テキスト(“コミュニケーション能力”も就職戦線で使われていたようですね。)の問題の焼き直しかなという感じもする。
再考・脱オタだけが僕らの道なのか?(汎適所属)汎用適応技術研究[index]


(書き途中)