美術の正統性

(卒論のためのプレテクストです。記述のウラきちんと取っていません。指摘があればお願いします。)

■美術が正統性の危機に陥っています。ひとつは、他ジャンルのアクセシビリティ及び、クオリティーでの競合によっての地位の低下。もう一つは、観念の恣意性がそれによって暴かれてきているということです。
■その結果、美術館への税金投入の恣意性(フジノ議員とのツイートhttp://togetter.com/li/33639)や、美術教育における消費文化の抑圧といった状況を生んでいます。
■「美術」というジャンルはハイクオリティーな視覚芸術作品という意味では、かつては妥当性を備えた概念でした。クオリティーの高い視覚芸術と出会うためには、高級な調度品や、大企業の作る宣伝美術(ポスター)や映画の看板など、出会える場が限られていましたし、かつては印刷技術も低いものだったので、美術館へ絵画を鑑賞しに行くことは合理的でした。
■しかし、高度成長以降、バブル経済へと突入する1980年代に入ってくると、消費文化が花開きます。「記号の時代」とも言われた時代ですが、人々の生活を豊かにする必需品が一通り揃い、美観やセンスの良いもの、クオリティーの高いものを作り出す余裕がここで生まれたのです。
■日本のミドルクラスのボリュームは、世界でも類を見ないものです。特別な教養を持たない人々でも、消費文化においてより質の高いものを支持し、内需として十分なマーケットがあったために、質の高い作品が数々生み出されることになりました。
伊藤剛によれば、マンガは80年代に技術的な達成を迎えます。アニメにおいても、『伝説巨人イデオン』『うる星奴ら2ビューティフルドリーマー』『超時空要塞マクロス 愛覚えていますか』『風の谷のナウシカ』『機動警察パトレイバー the movie 2』などの作品が登場。また、家庭用ゲーム機が本格的に登場するなど、消費文化におけるハイクオリティーな「視覚芸術」が次々に生まれる時代です。
■また、70年代にはじまったファンカルチャーとしてのコミケが、80年代に入ると一挙にその参加者数を増やします。「ふぁんろーど」などの雑誌を通じて形成されていくこのファンカルチャーが、90年代に入るとインターネットの登場により、キャラクターを中心とした創作分野がインターネット上で連結されていきました。
■80年代に生まれた消費文化は、個別の展覧会などで取り上げられはしたものの、ミュージアムが積極的に蒐集する動きには至りませんでした。マンガに関しては国立国会図書館の収蔵がありますが、公立のミュージアムによる蒐集は行われませんでした。
■アニメに関しても、作品に関する研究や技術的な進歩は個別に研究されはしたものの、それが集積され、一つの体系的な知として整備されるには至っていません。
■80年代後半から90年代にかけての情報技術の進歩は、一方でゲームを産み、一方でメディアアートを産みました。しかしメディアアートは現実の情報技術の進展のダイナミズムの方がより巨大であったために、アートとしての批評性が現在問い直されるべき時期に来ているでしょう。
■そして2000年代に入ると、インターネットの急速な普及と、それまでの消費文化の達成の蓄積によって、我々の視覚芸術的な環境は非常に整備されました。動画に関してはyoutubeという革新が。画像に関しては、イラストサイトの興隆、画像掲示板の登場、お絵かきツールの整備、そしてpixivの登場によってネットの景色はがらりと様変わりしました。それらはすべて、情報革命の中での一断面です。
■まとめれば、日本における近代化の達成(=消費文化の興り)と、情報革命によってクオリティーの高い作品に触れるためのコストが「ゼロ」へと限りなく近づいていったのです。絵画は、物理的な保管場所、維持修復コストや、アクセシビリティーに難があり、高コストです。
■また、80年代という消費文化の時代から30年という一ジェネレーションを経た現在、美術制度はまったく消費文化に対応できていません。(せいぜいが、デザイン系の教育において、最新の時流を紹介していく、ということですが、その教育方法の根底は、バウハウス流のシステムからの革新があるわけではありません。バウハウス流のシステムは、モダンデザインにおける教育システムのひとつの成功例ですが、日本的キャラクターカルチャーは「非モダン(デザイン)的」な要素を多分に含んでいるためにうまく適用しきれません。デザイン領域においても、キャラクターカルチャーは一定の抑圧を被っています)
■これが、クオリティーアクセシビリティーでの競合です。これでは、高コストで一ジャンルでしかない「絵画」のようなアートを擁護することが恣意的であると批判されるようになります。では、そもそもの美術観念の恣意性とは何でしょう。
■“美術”とは制度的に構築された概念です。明治期に翻訳された言葉で、西洋においては啓蒙主義と、その表裏の関係にあるロマン主義の思想の中から生まれてきた観念体系であり、制度としては美術館と大学、初等中等教育を大きな基礎としています。
■西洋近代において、作家性の在り方が大きく変わります。それは、ミメーシス(模倣)からクリエイト(創造)が重視されるようになったのです。啓蒙主義とは、宗教による社会構築を一切排除し、理性による社会構築をするべきというイデオロギーであり、近代化の根底にある思想です。それまで神の御業であった創造を、人間の手もとに引き寄せたのです。それが「天才」です。
ロマン主義はその天才性を称揚しました。芸術家とは天才であり、その作品は神の御業と同じなのです。
ミュージアムは、その啓蒙主義の神殿なのです。そして、芸術作品はミュージアムにおいて礼拝されるのです。芸術観念にはそういった「聖性」が付与されています。芸術にまつわる様々な「神話」をハンス・アビングは指摘しています。
■しかし、それが「神話」でしか無いことは、やはり芸術を国家によって保護し、称揚することの正統性を揺るがすものです。
■大坪圭輔によれば美術教育は「国策教育としての美術教育」「子ども中心主義美術教育」「美術教養主義美術教育」の三つに分断されていますが、このなかでも消費文化は排除されています。
■美術の正統性を保つならば、テクネーであることを取り戻し、色眼鏡を排して、私たちの文化的達成を素直に認め、芸術概念の脱神話化および、拡張が必要です。