「アート」「芸術」という語に潜む二重性について

「アート」あるいは「芸術」という言葉には二重の意味が張り付いており、それによって定義や会話が平行線、あるいは不毛な対立へと発展しかねない用語であるように思う。

存在論と価値論

一つ目は、存在論的な意味での「アート」「芸術」である。存在論とは簡単にいえば、「定義」のことで、「これは石である。」とか「これは道具である。」のような、それが何であるのかを表す言葉だ。

もう一つ目は、価値論的な意味での「アート」「芸術」である。つまり「これは芸術だ!」とか、「こんなものは芸術では無い」とか言った場合には、これはキャンバスに油絵具が塗られている!という部分に感嘆しているのではなく、「これは素晴らしい!」であったり「こんなものは下らない」「こんなものに価値は無い」といった意味で発言している。つまり、そこに価値判断が紛れ込んでいる。

そのため、アートの定義論争が実は価値論争になっており、そこに気付かないと不要な対立を続けることになる。

コンテンポラリーアートと、表現全般としてのアート

また、一方では欧米の「アートシーン」を中心に展開される「コンテンポラリーアート」と、表現全般を指しての「アート」ということがあるだろう。広義のアートと狭義のアートと言い換えてもいいかもしれない。
コンテンポラリーアートは、西洋の美術史の文脈、批評、美術館、アートマーケット、ジャーナリズムなどから重層的に組み立てられている「制度」で、そこに参入するためには、それらの一定の手続きを必要とする。村上隆は、日本の美意識を西洋のアートに向けてパッケージし、トランスレーションすることを考えていると発言している。
一方でもっとユルい使い方としてのアートがある。「○○アートを楽しもう!」みたいな(http://www.amazon.co.jp/%E6%A2%B5%E5%AD%97%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%82%E3%81%86-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%9F%A2%E5%B3%B6-%E5%B3%B0%E6%9C%88/dp/4839387656)やつですね。

そして、美術の権威性というのは、主に制度的な部分からできあがっているものです。詳しくはまた書きますが、「国家」が制度的に作り上げた側面があります。今日でも公的施設としてミュージアムは運営されており、美術を社会、あるいは国家としてどのように位置付けるべきかは、議論に値する問題だと思います。一方で、「アート」という語が価値判断を含んでいるが故に、アートの画定作業が、ただの価値闘争に堕してしまわず、全体性を踏まえた議論になるように、注意を払うべきでしょう。


アート&美術討論 - Togetter
芸術 - Wikipedia