例題:日本画について
■美術制度を通して「日本文化」のイメージを探る。
さて、明治以降の文化を考える上で、国家による制度の操作を見ていくことにしましょう。「日本の伝統文化」というイメージそのものは、大抵、室町期以降の文化がイメージソースです。*1和室、茶道、など。
しかし、明治国家が制度的に確立しようとしたのは「美術」でした。絵画・彫刻を中心にした制度体系です。この時期の日本のメインテーマは「近代化」であったわけですが、「文化的」であり「野蛮人」でないことによって、植民地化を逃れ、列強化しようとしたわけですね。(という説明をよく見るんだけど、ホントかいな、とも思う。どうなんでしょうか・・・)
さて、近代化によって「国民国家日本」を立ち上げる中で、文化意識にもシフトが起こります。これまで存在した「和/漢」というコードが「日本/西洋」というものに変化していくわけです。それまで「漢画」「やまと絵」として分けられていた絵を、「西洋画」と「日本画」という区分に変化させました。
それまでも、「和/漢」というのは、それぞれがどこで作られたのか、というよりは、スタイルの違いとして認識されていました。制作の地域が重要な意味を持つようになるのは、国境概念が重要な国民国家だからこそなのですね。
そして、西洋の美術を研究、輸入する窓口として西洋画科、ナショナルペインティングを扱うために日本画科を設置したわけですね。西洋画が特定の国家を指すものでは無いのは、「文化輸入」と、「自国文化の確立」という分担によるものなのですね。*2
さて、このようにして「日本画」が形成されると同時に「日本美術史」が形成されます。*3その中で「美術品」として扱われたものは、仏教美術や、公家、武家の美術でした。大衆美術である浮世絵や、西洋の美術概念には無い「書」などは、日本美術史のヒエラルキーでも下位のものとして扱われました。また、工芸品も「純粋美術」よりも下位の「応用美術」に設定されました。
国家は、紆余曲折しながらも「美術」「工芸」「工業」を設定しました。「美術」として国家としてのナショナルアインデンティティの確立を図り(当然、天皇制の補強、ということも意味します。)、一方で軽工業である「工芸」そして重工業である「工業」の促進によって、外貨の獲得、近代化の促進を図ったわけです。
膨大な日本美術が外国に散逸しており、すぐれたコレクションが外国にあったりします。今の目で見れば「文化保護意識の欠落」かのようにも映りますが、それは「外貨の獲得」という当時の至上命題を考える必要があるわけです。
■戦後の天皇制との分離、「現代美術」の登場
さてそんな「日本美術」ですが、戦後「近代」と「現代」の分離が図られます。天皇制、戦争の否定から、歴史画や戦争画などの否定、西洋世界との接続が図られ、「現代美術」が登場します。ここにきて、「日本画」と「西洋画」の区分が失効するかに見えますが、教育制度上は残り続けます。
このためナショナルアイデンティティを担うという目的が空洞化したまま「伝統的な表現」を追い求めるという「日本画」があらわれることになるのです。
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