101アートフェアの感想

4月1日に秋葉原で101東京コンテンポラリーアートフェアを見てきたので気になった人らをダラダラと。

榎本耕一
こういう評価軸が自分の中にあるのがすでに注目すべき事態なんだけど、pixivにいても全然驚かない。okamaっぽいな、と思う。というか色はokamaの方が綺麗。


麻生知子
「思い出の中の情景」を思わせる色合い。場面。シウマイを描いててよかった。あれ欲しい。イラストレーション的。


佐藤雅晴
アニメートのさせ方が気になった。フルアニメ的、というかトレスっぽいんだけど、目パチを二枚でやったりするという・・・よく分からない。狙っているのかいないのか。もっと映像的な快楽は追えるはずと思うんだけど、あえてやらないのか。


Haruka HIROSE
藍色が郷愁に繋がる。煙突がよい。


Etsuko SHIRAKAWA
描写するための虚構と、逃避するための虚構があるな、と思った。作品とは直接関係が無いのだけれど。作品の持つ「世界観」が、陳腐か否か、という問いと近くて、違うもののような予感。


武藤麻衣
食べ物の中に本質的に潜む汚らしさ、みたいなものを感じた。


山崎龍
画布ではなく身近な物にキャラを潜ませていく、という手段は嫌いじゃない。既に奈良がやってる気がするけど。キャラがあんまり可愛くない。


三田健志
鳥のでっかい写真。格好いい。


あと梅ラボさんこと梅沢和木
画面の絵の具的な質が、サンプリングされた画像の上に“のっている”のかと思ったが、実際に見てみると意外とマッチしていた。個人的には画面中央よりも、画面の端の方で(セルラオートマトンのごとく)ドットのラインにまで分解されてしまった画像の感覚が心地よい。全体としては宇宙的、地図的な空間性を持った画面である一方で、素材の持つ現在性というか、ライブ感にも溢れる作品。
恐らくこの手の作品をすぐさまネット文化と結びつけたがる人は多いのだけれど、それは一面的な理解に過ぎないなぁ、とも思う。
単純に「キャラ的なもの」を描いてくる作家を、有楽町の方でも多く見かけたが(それは作家自身が描きたいということも、需要もあるのだろうけれど)この作品には、キャラをやるのではなく、キャラがどんどん解体されていく志向性を感じる。梅沢の作品やポストポッパーズ主催の藤城嘘の作品も、「キャラ的なものの解体」を志向しているような感じがある(し、私自身がそういうものを見たがっているとも感じる)。キャラの仮構性を暴き立てるかのように。「キャラの現前性」が上昇するほどに、キャラの仮構性を暴き立てる欲望は上昇するのだろう。
また、プリントアウトした画像に沿って筆をのせていく、という作業の心地よさ、みたいなものを作者は語っていて、興味深かった。
ペチャクチャナイトでのプレゼンテーションも面白いので是非→梅ラボ in ペチャクチャナイト - umelabo log
嘘君こと藤城嘘(この名前もキャラが立ちつつ、「嘘」という仮構性を宣言する名前ではないか。ポストポップというよりもダストポップという名称の方が好き。適切と思う。カオスというよりはダスト的。)→ダストポップ