鑑賞教育と感性と自分探し
「感性の発見」とだけ言うと、なんだか「自分探し」ですか?という感じがする。自身の感性を発見し、それを肯定する。受け入れるプロセスは当然のことながら、その後の課題にも取り組まなければならない。私たち自身の感性が変化しうるということや、感性が対立する場面での調停の仕方を学ぶべきだ。
感性は育まれる
感性は、経験を必要とする。例えば、食べ慣れるうちに美味しさを発見できるようになるように、作品鑑賞も、何度も鑑賞したり、他の作品を鑑賞することで自身の中に文脈が生まれ、よい/わるい すき/きらい といった、自身の評価軸や、作品のねらいなどを様々に感知できるようになっていく。そのためには癖の強い食べ物も経験しておかなければならない。そういった経験そのものが、感性を形作り、生きる指針を形作る。=(感性の全肯定ではなく、いまの感性に安住しないダイナミクス)
感性は対立する
また、感性は常に対立を孕む。「私のしたいこと」が職に直結していることが稀にも関わらず、それに絶望するという振る舞いは、自身の感性(○○がしたい)と、社会に求められる(企業から職として求められる)ものとの対立を調停できていない。感性の全肯定では、この対立を不可視な物として扱わざるを得ない。そうではなく、可視化した上でその調停を模索しなくてはならない。それは抽象化して語るだけではなく、ごく個別具体的(ベタ)に、扱わなければならない。
制作においても同様に、目の前にある作品に対してベタに立ち向かわざるを得ない。作品とは「私が作品を見て感じて欲しいこと」を感じさせるように形作っていく作業とも言える。それは、教員であっても答を持っていない可能性が大いにあるし、持っていても答えだけを教えるようなことはしない。手を動かしながら考える。試行錯誤をする。そういった姿勢を教えていくことはできる。また、狙いをうまく伝えるような造形や、雰囲気や、筆跡や、質感を表現できたか?「私の感性」を他者と共有可能なものにしようとできたか?が問われなければならない。*1他者と価値観を共有しようとする。説得的にふるまうことが、そのまま調停の技能の一部となる。*2