鈴木謙介 サブカル・ニッポンの新自由主義 読解3(斜め読み?)

第三節 自己啓発する宿命論者

三節では、私たちが日々能力を高め、最新の情報にキャッチアップしなければならない社会に生き、それと同時に「かつてあった温かく甘い日本」への郷愁が浮上してきているのではないか、という。何を目指すべきかを決定してくれる企業や、家庭や、共同体があると信じることはできるが、かつてを全て美化することはできない。ゲームのルールは変わってしまったと鈴木は表現する。自己決定、自己責任が称揚される社会。それらが求められることがよくない、ということはできるが、それらに「対応しなくてもよい」という無責任な言説ははるかに罪深いという。また、そのルールに対応できない人々には当然セーフティネットが必要だが、それは貧困の問題として考えるべきだ、という。

これは、経済的な理由として、多品種少量生産的な体制へと移行したことによる、会社に求められる能力が変化した、ということが一つ。文化的、社会的な理由として、共同体からの解放と破壊が起きた、ということが一つあるように思う。これは、関連しつつも、本来別の現象であるはずが、日本では会社=共同体という状況が発生したために、会社が共同体的役割を放棄したと同時に、そこからあぶれてしまうことが致命的な状況になってしまったのだろう。

次に、リチャード・フロリダが言う「クリエイティブ(創造的)」という概念を引いて、新しい社会が求める人材が、創意工夫をして新しい付加価値を生み出すような人物となってきている、と説明する。情報化によって、データが無限にコピーできるようになったことで、今まで地理的、物理的限界によって勝負が発生しなかったような状況が変化し、物としてよりよい物を作ることができる人物が「勝ちまくる」ことで、そういった「人」が強烈に求められるようになる。そこでそういった「クリエイティブ」な仕事と、逆に人にしかできないが、人であれば誰でもできるような(マクドナルドのバイトのような)「マックジョブ」とに分かれる。

これは一見、職人が消えてデザイナーが現れた過程そのままに見える。だが、今起きている情報化では、かつての近代化が工業生産設備のような「資本」を必要としたことに対して、個人の能力こそが肝心の能力となっていることが異なっている。工場は個人では買えないが、イラストレーターCS4は84000円あればだれでも買える。ということだろう。そうやって「クリエイティブクラス」は絶えざる自己研鑽と、より自分を評価するルールを求めるという。

そして、そうやって人々が分断されることで、マックジョブに就くような層は辛くなる。そこで「自分が負けたのはルールが悪いのだ」と思って更なる能力主義への改革を求めるか「自分の能力はこの程度だったのだ」と思って宿命として受け入れるか(より嫌な言い方をすれば負けを認めるか)するだろう、という。そして、その負けた人々が「ありのままの自分=負けた自分」を受け入れてもらうことを望むという。そして、そういった「受け入れてもらえる」という自己承認の感覚を業務へと組み入れ、そのよろこびは金銭に代えがたいものだと教育する「やりがいの搾取」とでも呼ぶような状態もあるという。ただ、鈴木はこの批判に対してはある程度距離を取っており、やりがいも提供できないような仕事では、従業員を繋ぎ止めることができないという事態も考慮する必要があるという。

それらの背景には、仕事の能力を人間としての評価と受け止める心理があるという。人間としての評価であるからこそ、そこで勝つものは、自分を努力した人間と規定したがり、負けたものは、居場所によって自分自身を正当化しようとする、というのだ。また、そうして分断された人々は、社会のセキュリティ技術によっても分断されるようになるかもしれないという。

この節では、クリエイティビティのあるなしで、勝ったものは自身の努力を正当化し、負けたものは居場所を求めて低廉な労働を余儀なくされる、という像を描く。ここでは勝ったものが宿命論となる様は描かれない。つまり、自分の成功は能力ではなく状況のおかげです、と言える人物がいないのだ。これはいわゆるノブレスオブリージェ(持つ者の責務)*1という奴が無いということになるのかしら?

というか、やはり会社が共同体であることの害悪が発生していると見るべきなのだろう。前節で見たように、経済活動第一の企業が共同体のように安心を与えようとすると、高度成長モデルではうまくいくが、現状維持モデルや縮小モデルではうまくいかないということだ。
また、勝負の段階で「勝ちまくれる」ことも問題か。一人の人間が実感として、勝負に勝つ充実感のためには、対五万人とか、対十万人とかのレベルで勝つ必要は無いにもかかわらず、土俵が拡張されすぎているのだ。そこに対抗するには、土俵の小さな場所へと移るとか、(市場としてニッチなところを狙う。ニッチな市場を常に作り出す)土俵を見えなくすればよいのかなぁ。(主観的に土俵を小さくする=今すぐネットを切るとか)。あるいは、土俵で勝つ、という結果物だけを評価するのではなく、そこに取り組む姿勢こそが称揚されるべきか。または、自分にとって必要なものを見極めることで、勝負を回避していくとか。ここに関しても、経済的な必要性から勝つ、ということと、自己承認ととしての土俵とを分けて考えていく必要があるか。上の文章はそこを混同して罠にはまっている気がする。
内田樹風に言えば、企業は「利潤追求モデル(とにかくより効率的に!)」で、共同体は「生存モデル(どんなにジリ貧でもとにかく生き延びる!)」である、という前提を持って、共同体を再度構成することが求められている。ということだろうか。

うーん。分かりづらいのは、分かりづらいことをあえてスパッと言わずに逡巡している様子を描写しているのか?とも思ったのだけれど、どうにもそういう様子ではないなぁ。事例は多く出てくるのだけど、それの本質が何で、枝葉はこれで、という話があんまり出ず。「これこれこういうのがあります。でもこうなんだけどね。」みたいな言い方なんだよなぁ。まぁ、俺もわかりやすい書き方ではない。

第二章に続く。