リアルのゆくえ 雑感2はてなを追いながら。

トライヴ/リアル/サバイヴ――『リアルのゆくえ』から - 絶倫ファクトリー

財の公共圏と言論公共圏が別であると言っても、日本の政治は、実際に財の公共圏でもあることは明白であるわけで、そういった意味で公共性はあり得る。サロン的なものがなかったとしても村的な言論の空間があったはずだし。東の区分は正しいが、その線を引く箇所がやはりよく分からない。プライベートとパブリックの振る舞いが断絶するというのはわかる。でも、その線引きがどこにあるのかが分からない。
実は、グーグル的でない公共性のあり方として、NHK的なあり方があり得るのでは、と思う。東が(パフォーマンス的に?)言うほど、公共性は破壊されないし、復活させたい人が思うほど、公共性は復活しないのではない?ということか。
本当はそこでコミュニケーションの断絶を起こしてはいけないんだと思うんだよな。それだと「老害」と罵る下の世代と、「モンスター」と恐れる上の世代の無駄な対立を孕んでしまう。当然アーキテクチャによるストレスの軽減は必要ですよ。でもそれしか救いはないんだ、というのは、絶望しすぎだし、次期尚早なんじゃないの?コミュニケーションをやめる前にアーキテクチャーをちゃんと作ってくれと。

ここのコメント欄でも言及されているけれど、実感として様々な立場の人がどう感じているのか話す場が必要では。そしてそれこそが実は(メタな?)「公共性」なんじゃないの?

東にとって批評とは結局のところ多くの人への「私的な手紙」であり、

メディアに載ることは多くの友人や知人を広げるにすぎない

というように、「批評≠公共性=自己満足的(アマチュア)」なのです。


http://d.hatena.ne.jp/smith1/20080902/

となってるけど、媒体を介す以上はそれは公的ではないの?と思うんだけどなぁ。媒体に載る以上は、誤読を覚悟する、引き受ける、ということをやれ、と大塚がいってる。そういう意味でならやってますよ、と東は言うけど。

大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ』 - logical cypher scape2

自分はあんまり東浩紀のよい読者ではないのだけど、はてなで追っていくとどうやら東浩紀は転向したらしい。(ていうか、転向って何か悪いニュアンスを感じるけど、論を修正していくなんて当たり前じゃねえか。勝手に悪い印象を受けているだけ?)いい傾向なんじゃないの?って、思うけど。勝手に。憚られるけど。