美術館カタログから通してみるpixivミュージアムの可能性
最近ようやくweb進化論を読んだのだけれど、そこに書かれていた事柄の一つに、“権威”が何がしかの組織からのお墨付きでなく、個人個人の判断の集積になるすべてのクリエイターのアマチュア化、ということが言われていた。
展覧会というものを企画運営するのは美術館のキュレーターの仕事だが、その展覧会というのは何か、というと*1美術史的な文脈の創出ということが強く意識されている*2。
展覧会カタログの機能は2つないし3つあると考えていて、それは
- 会期が終われば消えてなくなってしまう展覧会を記録し歴史化する装置。
- 展覧会を追体験するための装置
- カタログを介して展覧会を語るためのコミュニケーション装置
である。
カタログが一つのパッケージとして成立しているということはどういうことなのかと言うと、それは展覧会が(作品と言う一つ一つの単位を持っているにも関わらず)一つのパッケージとして成立しているということに他ならない*3。しかしそのパッケージは美術館のキュレーターが作り出した文脈である。
カタログの今後の方向性としてたとえば作品単位でルーズリーフ化し、それをバインダーで閉じてはいけないのだろうか?来場者は自分の気に入った作品のページだけを買い、バインダーに閉じていく。この前感動したあの作品。次の会期のあの作品。この作品とこの作品は隣通しで見るべきだ。
あるいは美術館に展示される作品ばかりではない。ごく親しい友人の大好きな絵。この間見た空の写真。
そうして新しい文脈を個人が作り上げていく。
カタログの進むべき道の一方向ではなないかな。と思う。*4
さらに、そうやって美術がデータベース化されていけば、そこに浮かび上がってくる文脈を多くの人が考え、感じ、作り上げていくことができる。今そこに一番近いことができているのがpixivではないかな。と思う。
あるタグを打ち込んでみれば、そのタグが付いた絵が次々表示される。まるで一つのテーマに沿った展示を見るかのように。今はそれぞれのユーザーの行動と表示をそこまでうまく関連付けていないが、いずれはgoogleがやってくる。
そしてそのうちにpixivにアップロードされるイラストと同様に、過去、現在の絵画、彫刻、すべてが続々とデータベース化され、タグがつけられ、関連付けされていくだろう。
そうなったときに、専門家は果たして文脈の創出者でいられるだろうか?
旧来の文脈はいかに変化するのか?