空気読め!が消える世界。
子どもたちには健全に生きて欲しい。と思う。
健全さとは、有害さから隔離された子どもたちじゃない。
その有害さを有害と認識して自分で対処できる子どもだ。
(矛盾を飲み込んで生きろ)
右見て、左見て、顔色を伺ってものごとを決める子どもじゃない。
自分で判断して、自分で決められる子どもだ。
この世は無意味だとニヒリズムに浸って本気を出さない子どもじゃない。
楽しいことに全力で向かってしまう、子どもだ。
子どもにこうあって欲しい、というのは、自分はこうして欲しかった、
という願望らしいけど。
2010年、マッチョ主義によって日本社会のとてつもない大改革が始まり、人々の生活が根底から変わりはじめた - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
マッチョ、という語感がアレだけど。
こういう教育では、いかに規範を内面化するか、ということがネックになる訳だけど、
とにかく失敗に寛容で、試行錯誤を許容する空間と、試行錯誤を評価する姿勢を作り出していかなければいけない。
「学力」なんて騒いでいる場合じゃない。
一つの問題に一つの回答をする能力なんか求められてはいない。
自分で考える力。他人と議論する能力。そして、人にそれを伝える能力。
じゃあ、そんな制度に果たして本当に変えられるか。
というところでロビイングが必要になってくるのだろう。
↑の話の現実感の無いところは、実際に制度は変わらないだろ、という一点に尽きると思う。
何故、そんな実感が沸かないのかといえば、教育の中で制度を変える経験をしてこなかったから、という鶏・卵式の構図もあるわけだけど。
制度を変えるために必要なことは、自分が対案を出すこと。
案に対する反対があるのではなく、案Bに対する賛成があるだけなのだ。
未決定の先延ばしでやり過ごせない問題は必ずある。
放置すればどんどん噴き溜まっていく。*1
必要なのは当事者意識。
「政府」や「日本」と言ったときに、それは自分自身でもあるという意識を持っているのか?*2
批判するならば、変わりにどういった形があり得るのか。
それを提示せずに批判だけするのは「子供のすること」だと思う。*3
たとえば、公園にあるコンクリートと玉石の岩山に幼児がよじ登って降りられなくなり、
泣き叫んでいたとしよう。
この場合、親は、単にその幼児を抱きかかえて降ろしてはいけない。
幼児の手や足を玉石に一つ一つ導きながら、自分の力で降りていくやり方を教えるのだ。
泣いてばかりでは何も解決しないことを教え、不安と恐怖を克服し、現実に対処するための具体策をひねり出し、実行する精神をたたき込むのだ。
そして、下まで降り立ったら、良くやったと褒めてあげるのだ。
そういうことを何度か繰り返す打ち、子供は自力で降りることができるようになる。
ここは、忍耐強くやらなければいけないポイント。
無理やり「泣くんじゃない!」というのは悪いマッチョ(笑)
子供が自分で降りる決意を引き出さなきゃいけない。
なんとなく引っかかった一文はここ。
そもそも、マッチョは、愚痴や弱音や言い訳ばかりする弱虫ウィンプに哀れみの目を向け、なんとかしてやりたいとあれこれアドバイスすることはあっても、実際にいっしょに仕事をするなどまっぴらごめん、というのが本音だったのだ。
多分マッチョは、仕事するのに、愚痴ばかり言って、何故楽しもうとしないのか理解できないのだろう。
マッチョは弱虫を嫌悪し、軽蔑してるんだろうなぁ。
健全に生きたいものです。
追記。
全然タイトルについて書いてなかった。
マッチョたちは空気なんか読まない。
人の顔を伺って出る杭になるまい、などと思わないからだ。
日本がマッチョ社会になったらKYなんて単語は消えてなくなるだろう。
まぁ、あんまり現実感ない。
宮台真司はそういった、多くを動員できる、クリエイティブなエリートと、多様な消費をする消費者に分かれるだろう、と言っていたような。
そうなってくると、ベタに消費できる人と、クリエイティブな人はともかく、
ベタに消費者になれず、かといってこれといってクリエイティブでない人の立場が無いなぁ。
あと、雪かきをする人も必要なので、皆が皆マッチョマッチョしなくても。
雪かきの中にもマッチョ精神、というのもいいけどさ。