プライマリーフィールド感想 後編


プライマリーフィールド感想 前編 - 隣の誰かと遠くのあなたを
続き。


四人目、石川順恵さん


OHPで広告などからモチーフを持ってくる、というスタイル。
正直なところ、チケットとなった「生命の花樹の柱頭」のほかはピンとこない感じがした。
話では、自分の分かる範囲の理論が「規範」としてある中、それにどう対処していくか、という話をされていた。
今回の作家に「身体」「スケール」という問題意識が共有されているのではという指摘があった。


五人目は青木野枝さん。


丸く抜いたような鉄の板を行くつも溶接しドーム状にしたものと、周りの壁に丸く切り取られた写真が貼ってある「空の水−??」
作品はその場その場のもの。ここでもまた仮設性というものがある。
時間に対してできることは、賽の河原ではないけれど、つむ、くずす、つむ、くずす、ということだけ。
戻ってこない時間とサイクルの中で、経験というのが自分にとって大事だし、そういうことしかできない。
と言っていた。


気になった言葉
・自分の作品の奥に他人の作品が入るのも嫌。
・垂直の時間


六人目、坂口寛敏さん。


墓標のような作品が並ぶ「パスカルの庭のために−葉山2」。中央の椅子?台形型の円錐(なんていうんだっけ。メガホンのような。)が組み合わさった「パスカルの庭のために−葉山1」。展示室から見える夕日に心奪われる。実に景色がよい。
足、という話があって、富士山とここが足で繋がっている、とか、だからこそ地面から離れたいという気持ちがある、とか。富士山を上に見ることで、見えない地底を想像し、天空の目を想像する、とか。
パスカルというのは、見えない「気体」をとらえた学者の名前。そしてパスという超えるような名前だから、とのこと。
なんとなくこの話を聞いていて、「空間」という単語に自分がまったくリアリティーを感じていないことに気づく。
林さんからは、ドローイングを前に、デッサンが狂っているとはいうけれど、ドローイングが狂っているとは言わない。輸入した時期によるズレなのか、不思議だ、という話があって、坂口さんは日本人が筆で描いてきた感覚で、直感的に「ドローイング」というものが当てはまるのでは、と話していた。


最後にさかぎしよしおうさん。


スポイトから垂らした磁土を積み重ねていく作品。
作品は「成る」もので、自分が意図して青写真に向かって作っていくわけではない、という。
作品というは芸術という系そのものの中にある。また一つの生命のようなものだ。
はじめなんとなーく四角や丸で垂らしていくと作品の方が「あ、もういいよ」と言ってくるのだ、と語る。
よく見ると、繋がっている磁土があり、それこそが作品を一つの作品としているかのようだ。(事実そうなのだろうか)二色の磁土が分子模型か、セルラ・オートマトンのような感じを与える。
また僅かに傾き、崩れかかる様が「生命」というたとえと、何か関連しているかのようだ。
林さんからは、お菓子的、あるいはお城的である。ミクロからマクロになる、展示の高さが垂らして作っているときの視点と同じような感じでは、と指摘があった。



まとめ


以上、見てきたが、青写真が無いという製作態度や、反復を繰り返す作品など、なにかを共有している作品が並んだ。中でも「仮設性」というのは気になった問題だ。
私たちが生きる世の中は、そういった仮設の、いつまでも未完成の世界ではないか。
だからこそ、私たちは作る、ということをやめない。しかもそのベクトルは「完成」に向けられているとは限らない。という問題とリンクしているように感じる。

しかし、神奈川なら隣の県だろうとなめてかかったら、結構小旅行になった。また嵐の後でとても天気がよく実に景色がきれいだった。まさか海へ行くとは。
アーティストトークの内容も濃く、(まさか顔を知っている人が半分もいるとは思わなかったが)あっという間に過ぎた一日だった。カタログを買わなかったので、もう一度行って買わなければ・・・。
そのときは、もう一度それぞれの作品をゆっくりと見て回りたい。