プライマリーフィールド感想 前編

12月23日、神奈川県立近代美術館葉山の「プライマリーフィールド」でアーティストトークがあってので行った。
(さかぎしよしおうさんに招待券をもらってしまった!*1


聞き手が林道郎先生*2


まずは吉川陽一郎さん。*3


「私の八月の嵩(かさ)」という鉄の枠組みの作品。
中に入ると圧迫感が現れたり消えたりする感覚が不思議。
嵩という単位を使ったのは、高さ、重さといった言い回しでない単位でもあるから、とのこと。
また、設置のためのタグをつけっぱなしにしていたことについては、展示のときにはずして、また展示が終わったらつけるのってどうなんだ、と思ったとのこと。林さんが「仮設性」という単語で突っ込んでいた。


「転がる四角」は、あちこちが欠けた木の四角が複数。
立方体をぱっと見たときに裏側を見ずとも立方体と思うこと(ゲシュタルトというらしい)への抵抗感、「もっと見て」という気持ちで作ったという。
床置きだったことに対して林さんが台座を作らなかったのは何故か聞いていたが、美術館という場こそが台座の役割をしているから(台座が彫刻を彫刻であると規定している)いらないと答えていた。
いずれも認識についての問題を孕んでいて面白い作品。でも純粋に見ていてかわいらしい。


「旅行案内書−1」は、鉄のフレームにダンボールがはめ込んである作品。
なんだかダンボール一枚一枚が画面みたいで面白かった。というか画面だったらさらに格好いいだろうなぁ、と思った。
「右手の引く線」という「身体の固有性」を課題として考えていたという。
また「表と裏」という話もあった。



気になった言葉は
・「優劣」ではなく「差異」しかない。
・美術館という「台座」(何が彫刻を彫刻と規定するのか。)
・「わざとらしさ」と「まことしやか」


次が多和圭三さん*4
鉄をひたすらたたいた作品。ものとしての魅力がある。
自分がどこまでなら立方体として認識できるか。
自分たちの作っているものに行き場はない、というようなお話。
どういうものを作ろう、と思って作ってはいないとのこと。
ここら辺はプライマリーフィールドに出していた作家に共有されている意識のような感じ。さかぎしさんは青写真に向かっていくやり方では行き詰るのでは、と明言していたし。


気になった言葉
・体を使い切ってしまいたい
・誤用論


三人目は大森博之さん。
背後の手前というタイトルだけれど、はじめ裏側が無いとまったく気づかずに、本当に驚いた。吉川さんのゲシュタルトの話に通じるというか、まったく同じ問題だけれども。
大森さんは話が結構面白く、作品は半開きの状態がいいとか、深刻ぶった自画像にリアリティを感じないとか、一瞬間を切り取ったものより、ゆったりと立ち上がってくるものの時間感覚がよいとか、台所で手前の蛇口から水がジャージャー流れるせわしなさと、窓の向こうを離陸していく飛行機のゆったりとした動きの落差がたまらなく好き、など。
どうせ張りぼてなら張りぼてらしくやる、という感じ「自分の物語のネタバラシ」、偽悪的、「甘いメロディーが出てくると壊したくなる」なんていわれ方をしていた。(そういえばJNTの絵ももそんな感じがするなぁ。)


長いので後編はまた。


後編
プライマリーフィールド感想 後編 - 隣の誰かと遠くのあなたを

*1:本当にありがとうございます

*2:本当に言葉が豊かな人だなーと、段々と思うようになった。来年以降授業が受けられないのが本当残念。

*3:見たことあると思ったら、ムサビの先生だった。彫刻の授業受けたし!

*4:も、ムサビの先生だった。共彫研の先生じゃん!先週まで授業受けてたじゃん!