3Dスキャン面白いなぁという話

3Dスキャン(複数写真から生成する3Dモデル。呼び方3Dスキャンでいいのかなぁ。)面白い。具体的には、谷口暁彦と山内祥太、あとノガミカツキか。
思うに、3Dスキャンを見ることって、絵画しか知らなかった人間がはじめて写真を見た経験に近いのではないかな。「魂が抜かれている感じ」というか、3D写真は死体のようだ。山内祥太は反彫刻として、横たわる、力ない人体を作ったけれど、彫刻が「まるで生きているかのような」様相を目指すが故に、その反彫刻は死体が転がっているかのように見える。(つまり「物体」にはもともと生命が無く、「彫刻」は、それに命が与えられたようであり、さらにその命が失われた状態として、「山内の彫刻」がある。)3DCGは、形態を細かくしていく(皺や、毛を再現していく)というアプローチや、光の反射をシミュレートすることによってリアルな表現に近づこうとしていたわけだけれど、3D写真は、ざっくりした方向であっても、現実の色調を取得することで、そこに「生々しさ」や「空気感」が生まれてしまうということに驚きがある。
写真によって絵画が変質したことが、3D写真によって彫刻に起こりはしないかな?とも思う。しかしそれは彫刻ではなく、3DCGに起こっているのかもしれないなぁ。どうなんですかね識者の方々。

カオス*ラウンジ新芸術祭2015 市街劇「怒りの日」を見た。

9月22日に、上野駅発の特急に乗り、いわき駅で9月19日(土)から10月4日(日)まで開催されている、カオス*ラウンジ新芸術祭2015 市街劇「怒りの日」を見た。率直に言って、行って損は無い展覧会になっている。会場はいわき駅周辺の3会場を使用しており、それぞれに充実した展覧会となっている*1。第1会場は「もりたか屋」。1階には山内祥太のおなじみの手法である3Dスキャンを用いた映像作品があり、暗い部屋と鍾乳洞、そして3D空間という、会場と映像の構造が共鳴した鑑賞体験を作っている。2階には、村井祐希、藤城嘘梅沢和木、乙うたろうなど、絵画彫刻を中心としている。3階にはISISに捉えられているジャーナリストをモチーフとした今井新の新作があった*2。第2会場である平廿三夜尊御札受所には、キャラクラッシュ!展でも参加していた柳本悠花の、幼少時の記憶のような手触りの、フェルト作品がある。第3会場はやや離れ、山を登った菩提院にあり(ここを行く途中の八坂神社のあたりの道がなんとも感じがよい)、たかくらかずきのゲームはチープなサウンドと畳のにおいの組み合わせだけでやられてしまう。梅沢の襖絵は、震災以後の作のなかでは大分よい。また、第3会場の奥には、荒渡巌の画像の一本松と梅田裕のインスタレーションという構成。会期中はトークイベントなども開催されている。展覧会の構成は、駅を降り、町中からやや山の方へ行き、あの世を見て帰ってくる、というような構成になっている。「芸術祭」と銘打ち、無料の企画でここまでの展示をオーガナイズした企画者には恐れ入る。
しかしながら、展示を歩いていて、どうにも心の底から楽しめないというのは、これがどのような素晴らしい展覧会であっても、基本的にはこの方向性は「撤退戦」だよなと思うところだ。ここは個人的な見方が大いに関わってくる。
展示に先立って山本現代で開催されていたTHE 100 JAPANESE CONTEMPORARY ARTISTSにおいて、DOMMUNEの出演映像の中で黒瀬陽平が言うには、震災以降のカオス*ラウンジというのは「サブカルチャーが震災にリアクションしない。自分の中の理想の宮崎駿や理想の庵野秀明であれば、どうリアクションしたのか考えて、展覧会を行う」ということだ。しかしこれはまさに、カオス*ラウンジそのものがインターネットという命題をやはり回避していることを指しているように、私には聞こえる。DOMMUNEの中では、破滅*ラウンジをさして、「ネット万能論ではいられないと考えた」というのだが、そもそもカオス*ラウンジはインターネットに磁場を作り出し、その恩寵のまさに渦中にあった。そのインターネットの創造力をいかにアートとして召喚するかということこそが、「アートはインターネットに負けている」ということの根拠であったように思えるのだ。それはネット万能論か否かといった粗雑な総論ではなく、もっと具体的なプロジェクトとして存在していた。たとえば「再生*ラウンジ」は何故、どのように失敗だったのか?という問いを立ててみる、ということでその具体的なプロジェクトをより問うことができるように思う。よりクリティカルには、「炎上」の中にあった、インターネットが持つユーモアやウィットの部分をまさに「アートがインターネットに負けている」仕方で扱ったことを問うことで。*3あるいは「死人田」に放射能を連想する想像力というよりは、死人が出た時にそれを納得するための「呪い」という、人々の間にできる磁場と、インターネットの(人間のあいだの)呪いに関心を向けるべきに思えてしまう。*4
リサーチを行い、ある地方を舞台とした現代美術の展覧会を行い成功させるというのは、誰にでもできることではない。過去の土地への想像力を喚起すること、それ自体も魅力的なアプローチであるし、実際に成功している作品もある。しかし作家や企画者が、それを確信して表現へと接続させているのだろうか?エクスキューズに堕していないか、ということが、どうしても気になってしまう。そう、たとえば情報空間やメディアに出自を持っている「キャラ」を扱うという問題が、この展示の中では明らかに浮足立ってしまっている。土地の記憶とキャラの問題が接続することは(当然、不可能ではないと感じるのだけど)、まだ成功していないように思えるし、それを成したいと、本心から思っているのだろうか?と。*5
まぁ、こんなこと言われたら「じゃあお前がやれよ」と言われる類の話である。

*1:私が行った時には毒山凡太郎+キュンチョメ展もいわきにて開催されていた。Photoshop仮設住宅の住民に触れさせ、非難区域のバリケードをコピースタンプで消させることを通して、そこで発生する会話を見せていく試みは、「アートセラピー」と読んだ時には実は人々が期待していないような生のリアクションも露わにしており興味深かった。

*2:作家から、私に嫌われるかもしれない作品という言葉があったが、決してそんなことはない。というか、マンガなら別に大体どんな表現でも許せるよなと思う。物語芸術というのは、そういう許容範囲の広い芸術形式ではないかな。

*3:DOMMUNEの映像に戻れば、藤城嘘は震災以降のカオス*ラウンジについて「異質なものが同じプラットフォームでぶつかるというスタイル」に継続性を見るのだが、それは逆に言えばそこまで抽象的なレベルでしか継続性を見出すことができない、ということでもあるように思える。それはもはや別のプロジェクトなのだろう。オリジネイターがそのような認識であるならば、他者が残念がっても仕方がないことではあるのだが。

*4:展開すると津波そのものよりも、津波をめぐる人々のコミュニケーションにこそ注目すべきなのでは?といったような

*5:藤城嘘の絵画は、明らかに一時の精彩を欠いてきてしまっているように思える。曼荼羅的構図がどんどんと凡庸に収まってしまっているようにも見える。

キュレーションについて

雑然と書くけれど。(基本的にはキュレーターには直接伝えている内容である)
世界制作のプロトタイプ展始まる前には、2万字コンセプトからも、前回のwave展からも、あんまり何が言いたいとか無いんだろうなぁという風に見ていた。色々引用されても、頭よさげには見えるのかもしれないけど、そもそも読んでないからなぁ、みたいな。しかもそこから導き出されることとしては、作家の選出が狭い。
キュレーションというのは、自分が考えた限りでは、社会に対して、ある価値を展示という形式で訴えること、だろうと思う。さらに言うとこれは博物館システムと切り離せない問題で、収蔵庫は有限の面積であり、収蔵に支払えるコストは有限なので、収蔵するべき価値あるものはなんらかの基準で選別しなければならない。故に価値決定の闘争が起こる、ということになる。
実際に2度見たけれど、作家の選別に意外性や化学反応は無いように思える(ジャンルの幅はある。)。たとえばTOKIYAが展示空間でどのように作品を展開するのか、というのは結構命題として難題かつ重要なのだけれど、そこにどうアプローチするのか、とか。あとは、鑑賞経験を最大化とか、社会に表現を着地させることもキュレーターの役割と思うので、HIGUREのような車が1台通れるだけの、住宅街で、墓参りの後の家族連れが通り過ぎるようなスペースで、人が路上に溢れたり、デカい音出したりというのは大丈夫なのかな、というような、作品価値からは周縁的な問題かもしれないけれど、そういう運営の問題は気になりました。
や、手弁当で展示をやっている、というだけで、いいことなんだけどね。展示は無いよりあった方がいい。作品は無いよりあった方がいい。情報はないよりあった方がいい(あとで整理する)ってのがインターネットだからね。素朴にそう思うし。

あけましておめでとうございます。

2014年はいつになくあっという間に過ぎ去った年でした。主に労働者として忙しかったわけですが。
1年間何があったかと振り返ると、美術手帖の芸術評論募集で第一席になったことでしょうか。それに付随して、HIGURE17-15 cas、中野zingaro spaceや国分寺KoSAC、CAMPなどで話す機会を得たということでしょうか。展評も二艘木洋行展を美術手帖に書くなどしました。
2015年も変わらぬペースでできることをできるだけやっていきます。

Gレコはやっぱ1、2話が最高だったなという話。

Gレコ14話まで見たけれど、やっぱり1、2話が最高で、以降はうーんという感じ。キングゲイナーも1話が最高でしたね。基本的に話が立ち上がるところが好きというのはあるのだけれど、それだけではなくって、リギルドセンチュリーでは、宇宙描写の再定義、MSの再定義をやるぞ、という話に思えたというところが最高だった。
まず1話では、打ち上げではなく起動エレベーターを使って宇宙に上がっていく。ほとんど電車での旅行みたいなんだけど、行先は宇宙で、モビルスーツ実習をする。モビルスーツも、この時代には一度廃れた技術を復活させているので、完成されていたりオーバースペック過ぎたりはしない。まずレクテンは戦闘用のですらないし。「うお〜、ファイト!ファイト!」とかの儀式は、低重力下や無重力下だったら、気合入れるときはこうなるわな、っていう演出で、描きづらい角度でわざわざやってて良いわけです。はじめてモビルスーツにのるときのベルのわくわくした感じも、モビルスーツに乗るって、こんな経験なんだよ!というのが出てる。「動体視力が必殺兵器になるんだからな」っていうのは、今回の宇宙戦闘では動体視力おしでいきますよ、ということ。ミノフスキー粒子も緊迫感を演出している(クラウンが海賊に襲われる中で、どうにかモビルスーツに乗っているのは実習生たちだけ!)のだけれど、最高に痺れるのは、グリモアが地球ゆきのクラウンめがけて真下に飛んでいくシーンで、これ一発で「あぁ、宇宙空間は、こんなにも足元がおぼつかないんだ」「モビルスーツは宇宙戦闘機なんだ」っていうのが伝わる。レクテン対G-セルフが良いのは言わずもがななんで省略しますけど、作業用の機械をどうにか使って戦うっていうのはそもそも熱い展開である。(吉田健一の描いたキンゲの初期のイメージボードも、作業用シルエットエンジンが出てきたりしていたな)アイーダがつかまって髪の毛が広がるのも、「今回はちゃんと無重力描写しますよ!」っていうのと、「密閉空間はほこりが舞ってるし、においもこもってるんだな」みたいな演出になっていて良い(エンディングのベルリが髪の毛をしばっているのも、ノレドがああいう髪型なのも、無重力で髪の毛が広がるからかな?と思ったけど、別にそういう演出にはなっていない。1話中だと割とふわっとしてるようにも見えるんだけど)。
2話は、基本的にはモビルスーツの巨大さ演出で、空襲されれば甚大な被害が出るし(これはシリーズで繰り返し出てくる場面だけれど)、MSが水面に着水すると波が立ったり、木の橋を踏み抜いたりと、18mの金属の塊が動くとどうなるのかということがさんざん描写されていく。クライマックスのシーケンスがやはり良くて、グリモアの銃の薬莢が街灯を破壊するところから、巨大であるだけで持つ暴力性みたいなものが伝わる直後に、今までのUCのMSではあり得ない速度のパンチのラッシュ。そして絶叫。人間の10倍サイズの鉄拳があの速度で動くということだけで(別に強力なメガ粒子砲が、とかそんな話ですらなくても)いかに強大な力なのかというのが伝わってくるわけですよ。そりゃ「ビームサーベルを使います」「なんだって!?」ってなるよな、っていう。戦艦に乗ってドンパチやるだけの話ではなぁ、というところです。

無人島にてを見て彫刻的とは何なのかとつらつら考えた。

京都に行き、「無人島にて」を見たのだけど、「彫刻充したぜぇ〜」という気持ちにならなかった。そこで、彫刻的な鑑賞体験(というか、彫刻充したぜ、という満足感のもと)とはなんなのかな、と考えたのだけど、やはり、一望できなさ、なんだろうなと思った。立体である限り、作品を一望できない。それをぐるりと見回していく中で、形態が認識の中で組み立てられていく経験こそがおいしいところである、ということなんだろう。(あるいは見上げるという経験も、それなりに重要に思える。)そういうぐるり性のあるのは唯一福岡道雄くらいであった。八木正の作品は、そういうぐるり性から最も遠いところにある物体で、そしてミニマルアートにかろうじて残っていた?というか、作品経験の質としての「演劇性」のためにこびりついていた?サイズや導線、回り込みの鑑賞経験みたいなものまでなくしているような。(これはあんまり妥当な議論ではないなぁ)。写真で見るとかっこいいんだよな。笹岡敬の作品は見ていてよかった。水蒸気の左右に振幅する揺らぎ方から、空気は振動しているんだなと思ったり。
一望性のなさでいうと、「絵画の複数の地平や複数の視点の導入による、視線によって追うことによる再構成」というのは、ちょっと鑑賞体験として近いかもなぁ。あとは、動画は一望性がないという意味で彫刻的。ループ動画ってそうすると彫刻的ともいえる。谷口曉彦の「日々の記録」の展示でぐるぐる回っているときには普通に見えるのに、操作した瞬間に堅さが出るのとかも、別の角度から面白い議論できそうなんだけど。ChairliftのEvident Utensilで我々は「表面」をこそ見るのだと思うのだけど、それもまた違うところの話。
ところで、パンティ&ストッキングwithガーターベルトの1話のストッキングの剣のシーンとか、動いてるのに全部の瞬間が絵としてばっちりキマってるっていう異常な事態が起きていて、あれヤバい。複数の瞬間が脳内で重ね合わさっておいしいというのと違う。どの瞬間もキマってる。

MOBILIS IN MOBILI梅沢和木論、二艘木洋行論が公開されています。

北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILIのサイトにて、図録に寄せたテキスト「梅沢和木 キャラと画像とインターネット 画像の演算性の美学1」「二艘木洋行 お絵かき掲示板と(お)絵描き 画像の演算性の美学2」が公開されています。
http://mobilis-in-mobili.org/