ucnvトーク覚え書き

覚え書きにつき、記憶違い、解釈の違いなどあるかも。2014年2月16日、ICCにて。

ucnv
Tab. Glitchという作品は、「グリッチの作品を」ということで作った。ヘッダは壊さない、4種類のルールで壊す、などいくつかのルールを設定して行っている。グリッチは現象なので、作品になるのか、という疑問があった。毎回、作品に解説文をつけている。単体だと映像生成との差を説明できないし、解説がないと成立しないということは、芸術作品として成立しないのではと思っている。
自分としては2012年に電機大で行って展示で、グリッチはもういいかなと思っていた。グリッチというのは現象で、油を燃やすと燃える、みたいなもの。そのバリエーションを昆虫採集のように集めている。分子生物学ではなく博物学的な記述。科学者ほど厳密ではないし、昆虫標本にも外見による取捨選択があるように、美意識を介在させたくないという欲望はあるが、グリッチの見た目のあらわれ方に全く無関心なわけではなく、他と違う壊れ方をしている画像を選別した。
もともとucnvという人間は、データモッシュさせるライブラリで認知された。テキストエディタでやるような初歩的なグリッチは公開していなかった。グリッチは、それがただ面白いからやっているだけ。カメラのシャッターを押すのが楽しいように、グリッチを起こすことが楽しい。
グリッチはコンピュータからすればエラーではない。本当にエラーをはく場合は、画像が表示されない。グリッチを、コンピュータにとってはエラーでないことが、人間にとってはエラーであると定義することもできるかもしれない。

ロサ・メンクマンがpure glitch vs glitch artと言ったり、モラーリーがpure glitchi vs glitch alikeといったりしている。ここではpure glitchは一回性のものとされているが、そうすると、「現象としてのグリッチ」がどちらにもいなくなってしまう。自分は現象としてのグリッチに興味があるし、グリッチアートじゃないですよ(と言いたいけどグリッチアートですよ。)

どんな画像がグリッチしているかには興味がない。グリッチによってファイルフォーマットを見てしまうこと、そこにファイルフォーマットそのものが現れることに興味がある。

感想
どんな画像がグリッチすると面白いのかというと、それは明らかにキャラやポルノなど、見る欲望の強度が強いほど、「画像形式」という不透明なメディアがより立ちあらわれるように思う。「ファイルフォーマットをそのものを見る」というのはより抽象化すれば「メディウムを見る」ということであるし、「画像の演算性の美学」ということになる。故にそれは、グリッチだけでなく、圧縮の時点であらわれていることになる。
グリッチによってファイルフォーマットが明らかになるのであれば、次はファイルフォーマットがいかにして画像を成立させているか。=世界をいかに解釈しているか、に興味は移らざるを得ない。その意味で「グリッチだけ」が常に課題になるわけではない(=グリッチはもういいかな)にせよ、その現象こそが、機械のあまりの頑なさを示してくれる。

梅沢和木が扱うのは、キャラの死体か

震災は人々の生を断片化し瓦礫に変えた。被災者にとってかけがえのない思い出の品が、そこではあらゆる意味を剥奪され、物質へ還元され、「ゴミ」に変えられてしまった。それは耐えがたい経験だが、しかし不可避の現実でもある。オタクたちが愛するキャラクターを断片化し、アーカイブ化し制作の素材とする梅沢の方法論は、この点で震災の暴力を先取りしていたと言うことができる。他人の愛するものを「ゴミ」に変えてしまう暴力。だれがいかに愛するものであったとしても、あらゆるものが「ゴミ」に変えられてしまう瞬間があるという残酷な事実。それこそが梅沢の作品の本質である。

2013-12-26


意味が剥奪され物質に還元されてしまうのは、エントロピーの話、すべてのものが死に向かうという話であって、それを梅ラボ作品に適用しても、あまり適当ではない。梅沢作品にあるのは、そのような耐えがたい、不可避の現実を知らしめる効果ではなく、情報化した消費社会を生きる主体の姿だ。

梅沢作品の本質にある画像の暴力性というのは、物質ではなくて、すべてが情報化されてしまうことの暴力性*1であり、すべてが情報化されるが故に、コピーされ、流通し、引用可能であることなのだ。手元のデータが一切変化することなく(手元のデータを、元の持ち主が愛するままに)、無数の違う愛され方がありうることが、情報の本質ではないか。

梅ラボ作品は、故に、情報化社会における、所有の欲望の問題に触れている。(梅沢作品には、インターネットに流通しているもの=キャラの画像ばかりであるがためにむしろ、個人とネットの境界=UI=ウィンドウズの×ボタンや、ブラウザのフレームが現れることで、鑑賞者はそれが「インターネットの風景」を単純に取り出した図像ではなく、梅沢というbotのように(動物化した)欲望に赴くままの主体が、しかし自分とは違う視点=フレーム=ブラウザを持っていることを意識せざるを得ない。)画像への加筆、アニメーターやイラストレーターが生み出した線の追体験は、キャラへの「愛」あるいは、「所有欲」だ。「輪郭をなぞる」というのは、二次元にしかいない、情報でしかないキャラを得るための行為なのだ。*2

梅ラボはキャラの死体をあつかっているわけではない。(キャラを(「キャラのおばけ」性を)殺してしまっていては、梅ラボ作品の魅力は無い。)(梅沢は、キャラは死なないからうらやましいという旨の発言をしている。)意味を剥奪するのではなく、まったく逆に、どんなに分解されようと、そこにキャラのアイデンティティが、キャラの現前性が残ってしまう単位を梅沢は用いている。梅ラボ作品を見て、そこにゴミ性「しか」見いだせないのであれば、それはキャラの記号性に対する感覚がない者、キャラのデータベースにアクセスできないものだろう。

他者の例でいえば、「キャラを殺し切れていない」=キャラを匿名化しきれないが故に、作品の全体性を失っていしまっているのが金氏徹平(の一部のシリーズ)だし(さらにいえば、それがごろごろと並び、まざまざと見せつける様こそが、むしろリアリズム=死体を描く系譜には近い)、キャラを殺している=生かせていないのは、黒瀬陽平のモノクロのシリーズだ。

これは状況論でしかないが、アート側の、カジュアルなキャラへのすり寄りに対して、キャラの本質と交わる仕事をしたのが、梅沢和木であり、また、まさに「運営の思想」に(過度の数値化に)さらされ*3、高度に爛熟したマニエリスムへの鮮やかな回答として、その果実をもぎ取り、並べ立て、調理したのが、梅沢和木だ。

キャラの記号性が現前性を得るというのは、根本的な矛盾がある。つまり記号というのは、反復可能な、形式として固定されたものだ。その記号を用いて生命を、キャラを生き生きと描くという行為には矛盾があり、その矛盾を解決するために、記号的形態の、変化や変形が要請される。アニメートやデフォルメとは、そういう技術である。*4アニメやイラスト、マンガにおけるそれらの技術を、梅沢はゲーム的な画面と応答する感覚と、記号への欲望によって絵画へと組織したのだ。



とりあえず、梅ラボ論についてだけ。*5

私自身の梅ラボ論は、『創造の欲望をめぐって―キャラ・画像・インターネット―』、または現在予約受付中の、「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI -交錯する現在-」展カタログに寄稿しています。

*1:まさしく黒瀬陽平が指摘したように、あるいはグーグルのデザイナーの挿話のように、感性的な美を用いることを専門とするデザイナーにさえ、1ドット単位のデザインの調整(それはモダンデザインにおける、デザイン感覚の肝である)を、統計的事実で説得せよと迫ることもまた、情報化の一端だ。

*2:あるいは、老いて死んでしまうもの、腐って、食べたらなくなってしまうものを、永遠とするための祈りだ。

*3:greeにおけるゲームとゲームユーザーの関係は、サービスの提供者と消費者の関係であるが、pixivにおいて数値化にさらされるのは、各ユーザーである。

*4:藤城嘘のドローイングが揺らぎを孕んでいるのも、同様の帰結であろう。それが絵画になる際には、ドロッとした脂っぽさではなく、しゃばしゃばの水っぽさとしてあらわれている。

*5:ちなみに、「誰もが当事者性を持つための仕組みがなければならない」というのは、非常に重要だし、東電の立場を文学的に分有するというのは、面白いと思います。そこにネットの炎上や、クレーマー問題を重ね合わせるのは、ちょっと違うかなと思います。「文房具宣言」のような応答は、もっと早くにやって盛り上げることを期待していた。

黒瀬陽平『情報社会の情念』を読んだ。

黒瀬陽平『情報社会の情念』を読んだ。とりあえず、梅ラボについて、

「キャラクターのおばけ」だけを使って絵を描くことのできる唯一の作家」

としているにも関わらず、何故、「キャラのおばけ」性を自ら引き寄せることなく、直截的にキメこながコピペされた《うたわれてきてしまったもの》を称揚するのだろうか。
「キャラのおばけ性」=キャラの記号的なパーツの現前性は、あきらかに(震災以前の)《東方新超死》《グラシャラヴォス》《少女千万魑魅魍魎》といった作品群に濃密である。一方で(震災以降の)、たとえば《魔方陣》シリーズや、《とある人類の超風景》での唐突な仏像の引用など*1、梅沢が持っているキャラのおばけ性が発揮されていない。

*1:これは黒瀬的意味での「情念定型」なのだろうか?

『創造の欲望をめぐって―キャラ・画像・インターネット―』目次

論文、『創造の欲望をめぐって―キャラ・画像・インターネット―』の目次です。
内容としては、2011年、1月の時点で執筆が終わっているもので、展覧会「JNT×梅ラボ 解体されるキャラ」の問題意識を引き継いだ論文になっています。
メール、もしくはtwitter id @gnckまで連絡いただければ、データをお送りしています。

第1章 JNT 00年代最高のハッカー=画家
 1 JNTについて
 2 キャラ 絵である、しかし生きているということ
 3 画像の問題系
 4 構図 角度への美意識とオノマトペ
 5 ハイパーリンク ブラウジング・ハイ
第2章 梅沢和木とカオス*ラウンジ
 1 梅沢和木について
 2 カオス*ラウンジとは何か
  1 藤城嘘とカオス*ラウンジオリジナル
  2 黒瀬陽平のカオス*ラウンジ
  3 宣言文とイージーモードの齟齬
  4 【新しい】カオス*ラウンジ【自然】という達成
第3章 ウェブイラスト史
 1 ウェブイラスト前史
 2 ウェブイラスト史
第4章 創造の欲望をめぐって
 1 ARTの歴史
 2 全ての表現をフラットに扱うことは可能か
結論
あとがき

MOBILIS IN MOBILI 交錯する現在 カタログに寄稿しています。

コーポ北加賀屋で開催され、現在Gallely MoMo projectsとCASHI°で巡回展が開催されている「MOBILIS IN MOBILI 交錯する現在」のカタログに、梅沢和木論、二艘木洋行論で寄稿しています。

講評とは何か

最近、展示に行って「講評してくれ」と言われる機会が何故か立て続けにあり、困ってしまったのだけれど(つまり、上から目線を期待されてしまうと弱ってしまうわけなのだけれど)では、講評とは何か、それが批評とどう異なるのかを考えると、自分の行う批評行為がほとんど講評と変わらないことに気づく。

講評と何かと訊かれれば、要は美大での課題を制作し、提出、あるいはプレゼンし終えたのちのアレなのであるが、それにどのような機能があるのかといえば、それは当然、作品批評となる。

それはつまり、作品の達成を見極め、意図と結果について評し、体系における位置づけを述べ、歴史的にどのような類例があるのかを示し、作品の芸術性をより高めるための方策を示唆し、作品が内在する芸術的可能性を見出してやる、といった行為である。*1

言い換えれば、体系の中の位置づけを示せない講評は、被講評者の益にならないし、それはたとえばクオリティをあげる方策を示したとしても、その方向性をそもそも妥当とするのかという問いを問わなければ、十分な講評とは言えないのだ。

困ったことに美大における課題というのは、その課題設定に十全に答えるだけでは満点ではないのだ。その課題が持つ問題を批評的に取り扱うだけならまだしも、「その課題を梃子にどういった飛躍ができるのか?」といったものが求められてしまう、あるいは講評のときに高く評価されてしまう可能性がある。この事態を正統化するためにこそ、その課題の外側にある、体系や芸術性についての話ができなければならないのだ。そうでなければ、「ただ趣味におもねったからウケた」という誹りを受け、また誤解を広めてしまうであろう。というか、その正統化の作業が無ければ、それは「事実」趣味におもねっただけになってしまう。

振り返って、自身が作品に向き合うときの思考を考えれば、(日本に住んでいて美術の世界を見ていると、歴史的な傑作と向き合える機会というのはそう無いのだ。アニメとかは結構出会えると思う。)その作品が持つ美的強度を探し、それがどれだけ十全な方法で達成できているかを見ているのである。

講評というのは、歴史に刻まれた達成についての記述ではなく、いつでも作品の可能性についての言葉なのだ。私はそういう批評の言葉しか知らない。

*1:芸術性という言葉がピンと来ない向きは、クオリティとか、完成度と読み替えて大きくは差し支えない。っていうか、芸術性とは何か、という態度表明も、長い説明を要するな。

同人誌『ニコちく―ニコニコ建築の幻像学』に寄稿しました。

MobsDrive | 集合欲研究会ブログ/ニコちく跡地

同人誌『ニコちく―ニコニコ建築の幻像学』に寄稿しました。

Minecraft内のブロックで制作されるドット絵についての考察ということで依頼を受け、「ビットマップとインターフェイスの美学」と題したテキストを寄せています。ドットやブロックであることによる見立ての境界についてや、ゲームのインターフェイスと、作品体験について書いています。

第十六回文学フリマin大阪および、超文学フリマinニコニコ超会議2で頒布されます。